「人物記念館の旅」には、小説家、画家、詩人、文学者、学者、軍人、経済人、教育者、音楽家、役人、、、とあらゆるジャンルの一流人の人生と向き合える楽しみがあります。
私は音楽は詳しくありませんし、俳句は門外漢、医学などにも関心はありませんでしたが、それぞれの分野の一流人の記念館を訪れて足跡をみることによって興味の対象や関心分野が広がってきます。訪問するたびに、目から鱗が落ちる経験をします。記念館があるような作曲家は生涯で3000から5000曲をつくっています。著名な小説家の著作の量の物凄さも知ることができます。彫刻家も教育者も政治家も、こういう人たちの特徴はまず仕事量が膨大であることです。そして質の高い仕事群の中から生涯の傑作が生まれ、後の世にその作品が残るのです。それが代表作です。
絵描きには長生きが多いこともわかりました。90歳台まで筆を振るった人が多いのです。葛飾北斎は90歳まで生き、その間に90回も引っ越しています。しかも引越しするたびに名前を変えるんです。名前を変えるごとに作風を変える。引越しは、それまでの自己を否定して新しい作風をつくりだすための手段だったのではないかと感じました。
横山大観は明治初年(1868年)に生まれて、90歳まで生きています。この横山大観の記念館が不忍池のほとりにありますが、行くといつも閉まっている。実際に大観が住んでいた家を記念館にしているので、絵は湿気に弱いなど保存の条件も厳しいので、しょっちゅう虫干しをしなければならないとかでなかなか大変なのでしょう。三度目にようやく入ることができました。
音楽家では東京上原の古賀政男の記念館が立派でした。中山晋平は楽器なしで作曲しますから文人並の書斎が仕事場でした。
羽仁もと子は有名な学者の羽仁五郎の義理の母親です。羽仁もと子は「婦人の友」という雑誌を発行し新生活運動を提唱し、自由学園というすばらしい学園を創設して、大正、昭和を駆け抜けた人物です。この一家からは面白い人材が生まれています。羽仁もと子の娘婿が羽仁五郎で、その子が映画監督の羽仁進、その娘は羽仁真央というジャーナリストです。この家系は全部、ジャーナリスト、教育者で、人物は縦にみていくといろいろな発展がわかります。
田中館愛橘という名前はどこかで聞いたことがあるなと思ったら、日本ローマ字会の初代の会長でした。この人は日本の世界的な科学者を何人も育てたマルチ人間です。知研の最高顧問の梅棹先生が今日本ローマ字会の会長ですが、縁があったことを始めて知りました。この人も95歳まで生きて、科学者として世界を飛び回り、キューリー夫人やアインシュタインとも親交があった。当時、地球には二つの衛星があるとヨーロッパの学者が言っていた。ひとつは月で、もう一つは田中館愛橘博士。それくらい田中館博士は世界中をぐるぐる回っていた。この人の弟子がまたすごい。本多光太郎などそうそうたる人物が出ています。
大山康晴は千四百何勝もしている将棋界の最高峰で、数知れないほど賞をもらっています。しかし、「賞というのはごほうびではない、私にとってはげましである」と言っていますが、この言葉からあらわれる心がけに感心します。彼にとっては名人位を維持することなど関係ないことで、将棋道を究め続けることが目的だった。心構えが違う。
池波正太郎の記念館に行った後は、彼が愛した浅草・上野にひどく関心が湧くようになりました。東京で時間があったときは、「昼飯を食べに池波正太郎が贔屓にした店」に行こうという気になります。
私は長いあいだ教養の不足感があったのですが、おかげで最近すこし教養が
ついてきました(笑い)。
(「人物記念館の旅」をテーマとした講演録より一部抜粋)