矢口高雄 増田町まんが美術館

「漫画・釣りキチ三平」で有名な漫画家・矢口高雄さんとは数年前に雑誌の座談会でご一緒したことがある。「教育美術」という文部省系の雑誌で、全国の美術教師に配布されている。出席者は、漫画家の矢口高雄、コンピュータグラフィックの先生、そして図解コミュニケーションの私だった。指導要領の改訂で美術教育に、漫画とCGと図解が入ったとのことで、その座談会だった。矢口さんは漫画家は「強い風が吹いて草が揺れた」という記述を絵にするときには、どんな草の種類なのか、どんな色なのか、強い風の季節はいつか、など細かに考証しなければ描けないのですと発言して大変な仕事だなあと思った。また漫画はずっと差別されてきた歴史があり、やっと陽の目をみるようになってきたと感想を漏らしていた。矢口さんの静かな人柄に魅せられたことを思いだす。


秋田県増田町に町立のまんが美術館がある。

入場するときに気がついたが、矢口さん本人が5月4日・5日にこの地でのサイン会に出席するとの看板があった。連休の後半にここを訪れると会えたのかもしれない。


経歴表を眺める。

1939年(昭和14年)にひどい山の中の貧しい家に生れる。

4歳頃に絵を描くのが好きになる

小学校3年生、手塚治虫の漫画を読み、腰が抜けるほどぶったまげる。それ以降、手塚中毒に陥り、将来は漫画家になることを夢見る。

中学2年生、マンガ家になることを決意。

高校1年生、釣りや昆虫採集にあけくれる

高校卒業後、羽後銀行に入行

昭和42年、白土三平の「カムイ伝」にショックを受ける。

昭和44年、「長持唄考」が「ガロ」に入選し、昼は銀行員、夜はマンガの生活。

昭和45年、12年勤めた銀行を退職し上京。


天才少年が大人の釣り天狗を相手にパワフルに活躍する「釣りキチ三平」は矢口高雄の代表作で、大ベストセラーであるが、昭和48年から週刊少年マガジンの連載される。この作品は長い生命を持っていいて、第5回講談社出版文化賞(児童まんが部門)を受賞している。

その他、母校の西成瀬中学校を舞台にした体験を描いたエッセーコミック「蛍雪時代」、プロの熊狩りの一段を描いた「マタギ」(第5回日本漫画家協会賞大賞)、東北の山深い農村を舞台に幸せとは何かを描いた「ふるさと」などが代表作である。

平成12年には増田町名誉町民となっている。矢口高雄の作品は、故郷の影響が強い。


この美術館には漫画の世界で活躍する作家たちの写真と作品の紹介が、2階へと続く長いらせん状の廊下に配置されている。アトリエでの写真と漫画が展示されていて興味深い。

やなせたかし(1919年生)、竹宮恵子(1950)、猿渡哲也(1958)、諸星大二郎(1949)、新谷かおる(1951)、望月三起也白土三平(1932)、ちばてつや(1939)、土田世紀(1969)、きくち正太(1961)、平田弘史(1937)、手塚治虫(1928)赤塚不二夫(1935)、倉田よしみ(1954)、北見けんいち(1940)、高橋よしひろ(1953)、秋元治(1952)、上村一夫(1940)水木しげる(1922)、さろうふみや(1965)、水島新司(1939)、あだち亮(1951)、高橋留美子(1957)、石ノ森章太郎(1938)、原哲夫(1961)、森秀樹(1961)、藤子・F・不二雄(1933)、藤子不二雄(1934)。


「発想を

 もっと柔軟にしてみろ

 そうすりゃあ もっと大きな

 夢がふくらんで

   くるじゃないか!!」


「人間は失敗してまあビ

 つまずき転んで強くなる

 つまり人生には無駄が

 ないってことサ、、」


こういう漫画からとった言葉がパネルになって掲げてあるが、矢口高雄本人が書いた書である。書道3段の腕前だけあって素晴らしい字だ。


「平成版 釣りキチ三平」には、次のような言葉があった。

「見上げれば山 

 見わたせば山

 喫茶店も映画館もデパートもない

 山ん中のボクの村

 あるのは山々と一本の細い流れ

 好むと好まざるとにかかわらず

 その山と川がボクの

 遊び場であり

 勉強部屋であった」


人物記念館では、本を買い込んでくることにしている。後でじっくり本人の書いた(描いた)作品を鑑賞するためだ。現地でしか手に入らないものも多い。

今回は、矢口本人が描いた「ボクの手塚治虫」、「釣りキチSanpei 幻の魚争奪戦編」、そして漫画と文章で綴った「ボクの学校は山と川」、またNHK「課外授業 ようこそ先輩」の別冊である「ふるさとって何ですか」などを手にした。

矢口高雄は望郷の念が人一倍強い漫画家である。


このブログでは訪問の第一報を覚え書として記し、こういう資料読み込んで本人の実像に迫っていきたい。