石坂洋次郎文学記念館(秋田県横手市)

「若く明るい歌声に、雪崩も消える、花も咲く、、」で始まる歌声で有名な「青い山脈」や「陽のあたる坂道」という小説や映画で名前を知っている石坂洋次郎の文学記念館を5月の連休に秋田県横手市に訪ねた。泊まったホテルのレストランからは、長いすそをなだらかにひいて、頂上に残雪をいただいた端麗な鳥海山の姿が目に入る。ちょうど日没の時刻だったが、それは、それは美しい山容である。


石坂洋次郎は1900年(明治33年)に弘前で生まれ、最後は静岡県伊東市で86歳の天寿をまっとうする。死の床で、「人生よし」と書き残したから、悔いのない生涯だったのだろう。

弘前高校から慶應義塾大学に進んだ石坂は卒業後、横手で教師生活を送った。横手というまちは冬は長く春は遅く、かまくらの町として有名である。この教師生活から生まれてた作品も多い。プロレタリア文学の全盛時に石坂は青春文学を目指し、1933年(昭和8年)にはこの地で「若い人」を書き、絶賛された。しかしその内容を不敬罪・軍人誣告罪で訴えられた。結果的に不起訴になったが、学校にいられなくなっていく。その後1936年に自身の夫婦生活の不和を描いた「麦死なず」という作品を書く。石坂が数多い作品の中で一つだけ挙げるとしたらと聞かれて、挙げたのがこの作品である。「私は今日までたくさんの作品を書いているが、一つだけ残したい作品をと言われれば、躊躇なく「麦死なず」をあげる。」といっている。石坂は21歳のときに弘前出身の17歳のうら子を妻に迎える学生結婚だった。そのうら子との苦しい日々を描いたが、「この作品を書かなければ生きていく力が見出せない」というほど石坂は精神的に追い詰められていた。後に石坂は「僕の一番の代表作は「麦死なず」だよ」と講談社の文芸誌「群像」編集長の大久保房男に語っている。1949年(昭和14年)、38歳の石坂は東京へ出て大活躍を始めるが、この横手での教師としの13年の体験が、若い人を観察する目を養った。


石坂文学の特徴は、映画化された作品が多いということだ。「青い山脈」は5回、「若い人」「何処へ」「石中先生行状記」は4回、「暁の合唱」「若い娘」「陽のあたる坂道」は3回、そして2回映画化された作品は実に11作品にのぼる。多くの青年に希望を与えた作品を書いたのだ。


記念館には、石坂の書いた色紙が飾ってある。


 照顧却下

 地味に着実 

 に進むことだ


 私の好きなものは

 人間だ。嫌いなも

 のも人間だ。私の

 関心は常に人間

 の上にある


教え子たちに与えた書。


 生き甲斐や

 雪は山ほど

 積もりけり


 小さな完成よりも

 あなたの孕んでいる 

 未完成の方がはる

 かに大きいものである

 ことを忘れてはならな

 いと思う(若い人)


「「青い山脈」のかなたに---クラス担任石坂洋次郎先生(半田亮悦・秋田魁新報社)」という本を記念館で入手し興味深く読んだ。後に秋田県内の小学校、新制中学校教員として勤務した教え子が書いた石坂先生の思い出である。この本に書かれている石坂先生の断面を拾ってみる。


当時30歳の国漢教師で終身・国語・漢文を担当した。3年生のときのクラス担任だった。体重十一貫3百弱(42キロ)。私にとってはたた一人の眠くない先生でした。もの静かで、穏やかで、それでいて少しのたるみも隙もなく、滔々と流れるその口調。温厚で平静、クラス全体を温かく見守っている、良識派の先生。言動全般に圭角がなく、いつも感情の均衡がとれていて、素朴で誠実な先生だった。温和で、ほのぼのとした雰囲気が、クラス全体を包んでいるように思えた。身辺の普通のことを普通に話していながら、それでいて大切なことをきちんと教えてくれている感じだった。私たちの胸には、いつとはなしに、石坂洋次郎は自分たちの側の味方なのだ、という思いが住みついていった。

講義の流れには、一点一画の介入も許さないものがあった。薄っぺらな愛国心の高揚を説くことなどはしなかった。だが、その反対でもなかったように思われる。

先生は自分の職務生活に作家としての修行中の姿を全然持ち出さなかった。学校では、心から国漢教師という公人になりきっていた。


この半田少年は「賢く迷い、そして伸びよ」という色紙をもらって生涯の指針とした。


生きる喜びとはという生徒の問いに、「そうだねえ、健康で働き、ご飯をおいしく食べ、きれいな空気を吸って毎日元気で生きている、それが生きている喜びではないだろうか」と答えている。


「己の分に生きよ」

「賢い平凡人たれ」

「どちらにも片寄らない中道。人間は中道を歩むことが大へん大切なことです」

「私の好きなものは人間だ。私の嫌いなものも人間だ。私の関心は常に人間の上にある」

「人生は真面目な事実である」(アルバム)

「肉親や周辺の者を不幸にする生活環境の中から、人生にプラスする芸術がほんとに生みだされるものなのだろうか」


横手市城址に建てられた文学碑の碑文には以下の文が刻まれている。

小さな完成よりも

あなたの孕んでいる

未完成の方が

あるかに大きいものである

ことを忘れてはならないと思う

(「若い人」)--


この作家が教え子たちに残した言葉もなかなかいい。その言葉が彼等の人生に長く影響を与え、それが残っていることが素晴らしい。石坂は一人一人にその人にふさわしい言葉を書いてあげている。素晴らしい教師だったのだ。