与謝野晶子・鉄幹夫妻の中津訪問と「黒田武士」--郷里中津の同人誌「

郷里である大分県中津市の同人誌「邪馬台」の秋号が届いた。

大正6年に与謝野晶子・鉄幹夫妻が中津を訪れていることに関するエッセイがあった。
このときに江戸時代の文人池大雅が逗留して多くの絵や書を書いた自性寺を訪れている。そのときの写真も見つかっており、池大雅の書が見える自性寺の旧書院での撮影だった。
また、昭和6年にも夫妻は中津を訪れている。高本屋旅館に泊まり、当時北門にあった中津高女(現在の中津北高)で、晶子が講演したという記録がある、とのことだ。

与謝野夫妻は旅をともにしたようで、日本中あちこちに晶子や鉄幹の歌を記した碑を見ることが多い。その夫妻が中津に来ていたとは初めて知った。池大雅の絵で有名な自性寺では会津八一の訪問の記録は見たが夫妻の訪問が事実なら「大雅堂」の見事な展示もさらに豊かになるだろう。
また、晶子が講演したという中津高女は現在では中津北高という名前になっているが、この高校は私の卒業した高校である。そういう話は聞いたことがなかった。

「黒田武士」という歌がある。「酒は飲め飲め飲むならば、、、」の節で有名な歌だが、これも中津に関係がある。この歌は村田英雄が歌ってもいる。名参謀であった田官兵衛(如水)が主君の秀吉から賜った所領が中津で、黒田藩を起こした。この如水の子が黒田長政で関が原の戦いの後、家康から福岡で52万石を拝領している。中津には如水という地名があるがそういういわれは子供のときは知らなかった。長政の使者として京都の福島正則公に正月の挨拶に伺った黒田の家臣・母里太平は、酒癖が悪い大杯で飲み干せば望みのものを取らす!」といった。怒った太平は大杯で三杯飲み干し、名槍「日本号」を頂戴したという物語がある。この歌はそれを歌ったものだ。

この物語も聞いた記憶があるような気もするが、この邪馬台のエッセイでよくわかった。

川柳では、「自分史へ紆余曲折のいばら道」が面白い。
短歌では、「花の名も知らぬ夫が愛でていし朱色のカンナ猛くはびこる」がいい。
俳句では、「「ぬけないぞ」草とわたしの力くらべ」は小学生の作品。

今号の私の連載「人物記念館の旅」は、岡倉天心横山大観
同人誌の編集委員でもある私の母は、「邪馬台歌壇」の選者としての歌の批評と「伊勢物語 在原業平の真の姿」の連載の23回目を書いている。