出処進退の哲学と美学

参院選自民党が歴史的な大敗を喫し安部総理が続投を表明したとき、その週のメルマガで「この政権には出処進退の哲学と美学が欠如している」と感想を書いたことがある。
今日の安部総理の退陣表明に際しても同じ感想を持った。

父親の安部晋太郎外務大臣も最後は病気になり、ふっくらしていた顔が痩せてしまっても総理の椅子が目前だったため、痛々しい姿で政治に関わっていたことも思い出す。

どういう形でリーダーに選ばれるか、どういう形で退くか、これがあらゆる分野のリーダーの心すべき点であると思う。出るときは人に推され、退くときは自ら決めよという出処進退の考え方があるように、リーダーの品格は、出処進退に顕れると思う。

特に退くときが難しい。
タイミング如何によってリーダーの評価が定まるのだが、早すぎても遅すぎても批判される。
ちょうどいいタイミングというのは後になってわかるが、渦中にあるときの判断はなかなかの難題である。

一般的にいえることは遅めの退陣は失敗という評価が多いことだ。少し早いか、という時期が退くときの目安になる。早めの引退は失敗が少ないから、リーダーとなったら少し早めの引退を心がけるのがいいと思う。

明日の新聞やテレビは批判の大合唱だろうが、次のリーダーの選出を含めて「出処進退の哲学と美学」という観点から、今後の混乱を観察してきたい。