自由の拡大----カネ・ヒマ・カラダ、そしてココロ

連載している「ビジネスデータ」10月号に書いたエッセイ。
この連載も今号で23回目。後2回で12月号で完了。

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どのような社会であれ、共通の目標となりうるのは「豊かな暮らし」ではないだろうか。個人にとってもそれを目標に据えるのに異論はでないだろう。しかし問題は、豊かさとは何かということである。よく言われるのは、物質的豊かさと精神的豊かさという比較で、モノは豊かになったがココロは貧しくなったという議論だ。これもわかるのだが何か腑に落ちない感じがある。余暇こそが豊かさの中身であるという主張にも違和感を覚える。

豊かさとは「自由」の拡大であると考えてみたい。すぐに思いつくのは「経済的自由」である。経済的に自由であるということは、使いきれないほどのお金があるということではないだろう。何かしたい、買いたいと思った時、お金がかかるからという理由で止めないで済むという程度に金があるということだ。

次にくるのは「時間的自由」である。「毎日が日曜日」であると自由は感じないらしい。何かしたいと思いたった時に、やらなければならないことがあってやれないという状態では時間的自由があるとはいえない。天気がよくてゴルフをやりたいと思いたってすぐにできるなら、時間的自由があると言えるだろう。

この経済的自由と時間的自由は、「肉体的自由」によって支えられている。健康は豊かさの基礎的条件だ。経済的自由を「カネ」、時間的自由を「ヒマ」、肉体的自由を「カラダ」と言い換えると、経済と時間と健康、つまりカネとヒマとカラダが豊かさを示す指標となる。

ここで疑問が湧いてくる。カネやヒマやカラダの自由で何をするのか。ここで「精神的自由」が出てくる。この自由はやりたくない仕事をやらなくてよい自由、嫌な奴に会わない自由、やりたいことをやる自由、言いたいことを言う自由というように考えてみたらどうだろうか。いわば「ココロ」の自由である。

豊かさとは、肉体的自由(カラダ)を土台に、経済的自由(カネ)と時間的自由(ヒマ)を得て、最終的に精神的自由(ココロ)を得ることと考えたい。
「カネがあるときゃヒマがない、ヒマがあるときゃカネがない」という言葉があるように、経済的自由を拡大するためには、時間的自由や精神的自由を犠牲にしなければならないこともある。それは個人の選択の問題である。

この連載ではファシリテーションを「協働促進、組織が円滑に動き目標を達成できるように、創造・変革、問題解決、合意形成などを支援すること」と定義している。共に仕事をし、支援すべき仲間は、こういった自由の拡大を求めていることを忘れないようにしたい。