連載「団塊坊ちゃん青春記」第28話--汲み取り料金を払わないと、、

まだ20代の頃の話です。

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○汲み取り料金を払わないと…

独身で一人住いの場合、最も困るのは何だと思いますか。食事でも洗たくでもありません。人間が日々の生活を営む上で、この社会の仕組みを根本から支えているもの、つまりは、税金や公共科金の類をどうやって納付するかという手段が問題になるんです。
そもそも国というものは、その国民から税金を取り立てて、その資金でもって国民生活に必要な様々な事業を行うものです。それは、重々わかっており、悪気はないのですが、結果として、そういう仕組みにタテつくことになることがままあります。
あまり自慢になる話ではありませんが、そういう話を少しばかり。

夢のようなロンドンから帰国したあとは、千葉県のある市に一人で住もうと決めて、二、三の不動産屋をめぐりました。いかにも土地の不動産屋という感じの、人の良さそうなオヤジにだまされて、一戸建てに住むことに決めました。

契約はしたものの、この家はひどいところです。二Kしかないのですが、この家は、道路に面しており、車の通る音もきこえますが、もっとひどいことに、この家の前は、K電鉄が通っておりますし、反対側の窓からは、S線の高架が走っているのがみえます。そしてその二つの線が最もせばまったところにあるのですから大変です。
家の中にすわっていると、左の耳には、地ひびきをたてながらK電鉄が走ってくる音が入ってきます。右の耳には、快速電車がヒューンと風を切りながら走り去るのがきこえてきます。しかも悪いことに、家の前は踏み切りになっており、K電鉄が近づいてくると、警報機がチーン、チーンと長い時間鳴りわたりますが、電車が線路をこする音が最高潮に達し、やっと小さくなり始める。「あーあ、やっとすぎたかあ」と安心するや否や、おどろくなかれ、今度はチンチンチンと、そのにっくき警報機がケタタマシク鳴り始めます。何事ならんと窓をあけると、今度は、反対側から電車が走ってくる。

どうしてこういう風になったかと言うと、都会の人間は、気が短いものですから、左方向から電車が来て通りすぎると、急いでわたろうとして、右側からくる電車に気がつかなくなり、大変に危険であるから、おどろかすためにそういうしくみにしてあるんだそうです。又、おまけにこの京成電車は、本数が多く、しかも朝が早い。したがって、朝は5時頃から夜は12時頃までチーンチーン、ゴオー、チンチン、ヒューンとまことに騒々しい。

初日はねむれないので、不動産屋のオヤジに「ひどいじゃないか」とどなりこんだところ、「いや、大したことはねえよ。人間つうのは、何にでも慣れるもんだで。普通の人なら一ケ月で慣れるが、あんたは気分が大きそうだから、一週間もあれば、慣れるさ」と太鼓判を押してくれます。何となくほめられたような気になって、暮らしていますと、三、四日経つと、あまり気にならなくなりました。さすが長年生きているオヤジだけあって、よく人をみているものです。

この家のもっとひどい所は、これも不動産屋のオヤジにだまされたのですが、。なんと、トイレがくみとり式なのです。東京で、しかも花のロンドンから帰ってきて住む所が、くみとり式というのは.ないだろうと思ったものですが、本当にこれは失敗でした。

くさいのはフタをすればがまんできますが、面倒なのは、市役所から、時おり、料金の請求がやってきます。「くみとり料金を払って下さい。今月は何百円です。」例によってほったらかしにして暮らしていますと、だんだんキツメのレターが舞い込み始めました。それでも放っておくと、最後通告がやってまいりました。世の中に、これほど無慈悲で、しかも人の弱味につけこんだ言葉はありますまい。「○月○日までに支払わなければ」おお恐ろしい、「○日より、くみとり停止処分に処す」と書かれてあるではありませんか。もしも、くみとりが停止されたら、と考えると恐ろしくなってきました。これには、さすがの私も、権力の圧力に屈しました。会社を休んで、市役所まで、払いに行ったものです。権力ってこわいですね。

○人は、その人にふさわしい事件にしか出会わない!

 こうやって来し方を振り返ってみると、自分にとっては悲惨で恥ずかしい出来事の連続であったということができます。本人にとって悲惨な出来事は、他人にとってみると滑稽な出来事である場合が多いとはよく言ったものです。

 私はずっと自分にはどうしてこうおかしな出来事が起こるのだろうかと不思議に思っていました。そしてある時このなぞが解けました。それはある本の一節にこうあったからです。
「人はその人にふさわしい事件にしか出会わない」

 結局、自分の身の回りで起こっていることは、自分が周囲を巻き込んで起こしていることなのだとわかった時、私は初めて合点がいったのでした。
「そうか、すべて私が引き起こしたことだったのだ」と。