「逝きし世の面影」(渡辺京二)

渡辺京二という名前には記憶がある。私の属しているNPOがまだ産声を上げた頃、講師として出講していただいていた在野の日本近代史家として知っている。私自身はこの勉強会を四半世紀以上続けているが、名前だけで実際に会ったことはない。1930年生まれだから、勉強会に来ていただいていた時代は、まだ40代だったのだろう。この人は当時からずっと熊本市在住である。

この渡辺京二氏が書いた「逝きし世の面影」(平凡社)という文庫版600ページの大部の書物を読み終わった。この本の記述の美しさにひかれて一気に読み終えるのが惜しくなり、毎日少しづつ読み進めるという読み方をしてみた。この一ヶ月ほどは朝の短い時間、心が洗われる様なすがすがしい気分を味わった。

江戸時代から明治中期までの期間に確かにあった美しい一つの文明の姿を描き出すために、著者はこの時代に日本を訪れたあらゆる人たちの紀行文、報告書、エッセイなどを実に丹念に読み込み、その観察を細かく紹介していく。長崎に来たシーボルトや黒船で来航したペリー提督、ゴローニン事件の当事者、外交官サトー、医師ポンペ、女性紀行家・イザベラ・バードといった著名な人物などの書物や、無名の男女の書き残した日記・観察記など、その渉猟した資料の膨大さと引用の的確さに驚く。長い年月と細かな作業の伴う労作といってよい。

一つの滅んだ文明の面影を、文明の当事者たちではなく、外から見た目で浮き彫りにしていこうとする試みであるが、読者はその記述の正確さとそのこ言葉が織り成す世界の美しさに心を奪われる。明治維新以降に行われた急速な近代化・西洋化によって死んだ、奇跡ともいうべき一つの文明の姿を私たちは脳裏に焼き付けることができる。著者の織り成すこの世界の残滓は、子供の頃の風景にいくつか見ることができた。たとえばこまかく分かれた職人の世界の記述は、近所に竹細工職人がいたことを想い出させる。この本を読んでいると何か懐かしい感慨がうかんでくる。

「ある文明の幻影」「陽気な人々」「簡素と豊かさ」「親和と礼節」「雑多と充溢」「労働と身体」「自由と身分」「裸体と性」「女の位相」「子どもの楽園」「風景とコスモス」「生類とコスモス」「信仰と祭」「心の垣根」という14の章で著者が繰り返し浮き上がらせているのは、美しい風景とやさしい心根と見事な礼儀作法をわきまえた日本という文明の美しさである。ここには確かに「美しい日本」が存在している。

笑い上戸、愉快な人種、生活に満足した満ち足りた態度、こっけいなほどの礼儀正しさ、無駄な家具のない簡素でシンプルな家屋、好奇心旺盛な男女、それなりに豊かな生活、絵のようにつくられた農村の景色、建前とはまるで違った自由な生活、性に対するあっけらかんとした態度、通説とは異なる女性の高い地位と発言権、世界のどこよりもこどもを大事にする態度、動物を家族と考える心根、災害や不幸という運命を享受する諦観、宗教行事をイベント化する才能、民芸品が示す文化度の高さ、草木と花々の豊かさとそれを愛でる心の豊かさ、清潔さと勤勉さに彩られた生活、どこあでも続く見事な田園の風景、、、、。

ここには私たちが学んだ封建時代という固定概念を覆す事実と観察が無数にちりばめられている。この文明の末裔である私たちは、その美しい文明の残滓を時折この世で見かけることがあるが、ここにはその文明の総体が面影として淡く存在している。

この文明が形づくった人々の精神は、明治時代に生きた人たちに中に確かに息づいていた。「明治の人は偉かった」という述懐を年配者から聞くことが多いが、それはこの失われた文明が育んだ精神だったのだろう。価値観という言葉がある。それは人生でもっとも大切にすべきものという意味だが、今の世に生きる私たちは恥ずかしくない価値観というべきものを持っているだろうかと自問せざるをえない。文明は独特の精神がつくりだすものだということを強く感じる。今日の日本人が読むべき名著であると総括しておこう。

こういった文明の面影はどういう形で残すことができるだろうか。まず書物や映画という形が思い浮かぶが、仮想空間上につくるといいと思った。セカンドライフなどの3Dのバーチャル空間に「逝きし世の面影」を再現するプロジェクトもいいと思う。