「ウェブ時代をゆく」(梅田望夫)を読む1−−「見晴らし」と「構造

梅田望夫の最新著「ウェブ時代をゆく」(筑摩新書)を読んだ。

梅田の「ウェブ進化論」「フューチャリスト宣言」はそれぞれ刺激的だったが、この本はIT技術革命の時代にあって若者は「いかに働き、いかに学ぶか」をテーマに書き下ろしたものである。話題となった「ウェブ進化論」に関する書評や感想を2万近く読み、ノートをつくり、フレーズを抽出しするという営為に1000時間以上の時間と労力をかけた上で、出来上がったのが本書である。ウェブ時代ならではの本の書き方である。

ウェブ時代をゆく」は重要な書であるので、何回かに分けて私の考え方とシンクロする部分を中心に自由に書いていきたい。

梅田は本書の冒頭で「1975年から2025年までの半世紀」は、百年後に「情報技術(IT)が世界を大きく変えた時代」と総括されるに違いない、と喝破している。この書はそういった時代に生まれた新しい世代に向けた激変期のサバイバルの書という性格を持っている。
私は1950年生まれだから、この歴史的な転換期である半世紀は、ちょうど25歳から75歳までの期間にあたる。前半は大企業の中で仕事をし、47歳ときに転身し今は大学で教鞭をとって10年たった時点にいる。大人になってからの50年間はIT革命の夜明けから成熟までの期間ということになり、実に得がたい経験をしているということになる。
この書は若者にまずレベルの高いウェブリテラシーを身につけよとアドバイスしているが、私自身の働き方、生き方を考えさせるものを持っている。私たちの世代もIT革命の世界をつくりあげる側に立つことはかなわないが、その新しい世界の黎明期、発展期の成果を使う側として楽しみながら伴走することはできそうに思う。


さて、梅田は「Vantage Point」(シリコンバレーの投資家ロジャー・マクナミー)というキーワードを「見晴らしのいい場所」と説明している。分野の最先端で何が起きているかを一望できる場所に立てとのメッセージである。
私も「見晴らし」をテーマとした本を書いていることもあり(「見晴らしを良くすれば仕事は絶対うまくいく」(実業の日本社)、同感する。

日本海軍の艦長はその艦で最も高性能の双眼鏡を持っていた。それは戦況の確認や決断を迫られたときに、リーダーという重責にあるものは、最も「見晴らし」がよくなくてはならないという考え方の反映であった。
優れたカメラマンと一緒に旅行をしたことがある。同じ行程を歩んでいるのに、彼の撮った写真は皆より抜きん出ていた。バスに乗るときはドライバーの真後ろに陣取る、史跡を訪ねるときは、ちょっと小高くなった場所でシャッターを押している。面白い構図が生まれるし、シャッターチャンスも逃さない、したがって、優れた写真が出来上がるというのがその秘密だった。
職場の風景を見てみよう。係長は平社員より、課長は係長より、部長は課長より、見晴らしのいい場所に机を置いている企業が多いはずだ。
上司は山の7合目にいる、部下は3合目を登っている。状況認識が異なることがよくあるのは、見ている景色が違うということである。見晴らしの悪いブッシュの中を悪戦苦闘しながら一歩づつ歩を進めている部下が見る景色と、7合目から見える景色はまったく異なっている。
見晴らしがいいポジションにいると状況が人よりよく見えるから、判断が正しくなる可能性が高くなる。つまり位置取りが大切なのだ。
同じ能力なら、位置取りしだいでより高い見晴らし台を手に入れることができる。その経験がさらに高い場所へと人を誘導するのだ。
優れたリーダーと接していると「見ている景色が違うなあ」と感心させられることを経験している人も多いだろう。彼は高いところから問題を眺めている。こういう視点を持った人は、役職に関係なく、ごく自然にリーダーに押されるはずだ。リーダーとその他のフォローワーの違いは何か。それは、見晴らしである。見晴らしのいい場所に立つ、これがリーダーになるための心構えである。
日本には鳥瞰図絵師という名前の画家がいて、日本各地の風景をまるで鳥が空から見たように描くことができた。見晴らしがいいとは、その鳥瞰図絵師たちの視点を持つことだ。


また、梅田は「構造化」というキーワードに関心を寄せている。
ルポライター沢木耕太郎の「見知らぬ土地にでかけてたくさんの見知らぬ人に話を聞き続ける行為」と「「その結果を構造化しようと苦吟する過程で発揮する創造性のようなもの」という言葉や、今北純一のバッテル研究所での仕事が「「見知らぬ人の話を聞き続ける」ことから始まり、「思考の構造化」に終わる」という言葉に惹かれている。

最近「構造化」という言葉を色々な場面で聞くようになった。地域活性化の専門家は「現状を構造化して理解していくべきだ」と言っているし、学校の教員は「知識を構造化して教える必要がある」と語っている。また知の総本山を自認する東大は「知の構造化」という旗を立てて改革に邁進中である。
確かに箇条書きで知識の断片を平面的に並べてきたのが、私たちの社会のやり方であったから、その断片同士が織りなす構造はどのようになっているかという観点から吟味をする習慣を持つことは意味があると思う。構造化とは部分同士の適切な並び方を考え、大小を吟味し、立体的な形に転換し、ある世界を筋道のたった解釈で説明することだといえるだろう。
そういう意味では、日常目にする契約書は条文が箇条書きで平面的に整理されているともいえるし、社会の基本的なあり方を示しているとされる法律も、現実の社会が立体的であるほどには構造化されてはいないのである。
知識は構造化の努力によって一段と高いレベルに達するであろうことは間違いない。しかし、この構造化という作業によって完成された知識の体系は、それなりの硬度を持って存在することになる。組織の構造、契約の構造、改革の構造、政策の構造、、、。こういった構造化された世界はその段階で固まって環境の変化に応じて柔軟に変化することが難しくなる。
実は構造化の先には時間軸での変化や深化という世界が待っている。ここで役に立つのは「関係」という視点である。関係は常に変化する。あらゆるものは変化の途上にある。関係の整理、関係の再構築、関係の是正、関係の修復、関係の創出、という言葉を並べてみるとわかるが、構造という言葉には静的な響きがあるのに対し、関係は動的な概念である。一瞬手にしたと見えた構造はその時点から現実から揺さぶられる。ある瞬間の関係の束としての現実は、環境の変化しだいでいかようにも変容する。例えば、細分化された分野のある時点での全体構造は示すことができるが、分野同士の関係は常に変化、深化していくから、全体図としての鳥瞰図は進化し続けていかざるをえない。
構造化という静的な知識の体系の構築を土台に、関係という動的でダイナミックな視点を持ちたい。そもそも関係という概念には構造を含んでいるのだ。関係は大きくしかも柔らかい概念なのである。私たちは「関係」という視点を持ち続けていくことでビジネスでも豊かな実りを手にすることができるだろう。
(続く)