「ウェブ時代をゆく」(梅田望夫)を読む・3−−「思考停止」か「鳥

k-hisatune2007-11-12

梅田望夫は、「構造化」に関して次のようにも言っている。

「特に「けものみち」においては、自分が興味を持って考えているもやもやとしたことを、相手に合わせてわかりやすい形に構造化してコミュニケーションする能力が重要になる。」「そんな構造化能力、コミュニケーション能力は、このオープンな知的生産プロセスで磨くことができると思う。」(161−162ページ)

「構造化能力」「コミュニケーション能力」に関して、少し深堀りして私の考えを少し述べてみたい。

                                                                                      • -

・文章の最大の特徴はごまかしがきくことだ

新聞や雑誌、書類、社内文書、電子メールなど、多くのコミュニケーションの場では、現在、文章が主体になっている。学校教育で身につけたのは、こうした文章によって表現、伝達する方法だが、果たして文章はそれほど完璧な表現や伝達の手段なのだろうか。

通常、文章を読むとき、書かれた文脈に沿って読み進めていく。これは書き手の思考の流れをなぞっていくことだ。ものの考え方は人それぞれ違うから、他人の思考様式に従うと、自分の思考を自由に働かせることができなくなる。何か納得できない、釈然としない感じがすることも多い

また、さらに、新しい言葉の定義や関連した事柄の説明が入ると、話が脇道に逸れてしまい、文章自体の見通しが悪くなる。実際の物事は立体的だから、文章ではそれらをすべて文脈という一本の線の中で表現しなければならない。

書き手はさまざまな接続詞やレトリック、「てにをは」の使い方などに十分に気を配りながら、何とか物事の構造や因果関係、時間的な流れを表現しようと努力する。しかし、それを一目瞭然、一瞬にして全体像を掴めるようには、文章ではできないのだ。

文章は、例えば地図のように物事の位置関係を表すことが苦手である。言葉で伝えようとすると大変なのに、ちょっと見取り図を描くと簡単にわかってしまうというような経験は誰にでもあるはずだ。確かに文章でしか表現できないこともあるのだが、不得手な分野もある。

また、文章は複雑で見通しが利きにくいため、矛盾があったり、曖昧なままでも、書いた本人が気付かない、あるいは、ごまかしてしまうことがある。つまり文章によるコミュニケーションでは、書き手もよくわからないまま文章を書き、当然、読み手はなおさらわからない、ということが起こってくる。

ワープロやパソコン、電子メールやインターネットの発達で、文章情報の量は飛躍的に増えているが、その反面、誰もが手軽に発信できるだけに、内容がよく吟味されていない文章もたくさん出回っている。意味が曖昧だったり矛盾した文章が出回り、それが誤解され、未消化のままどんどん伝えられてしまう。

・箇条書きは思考を停止させる

文章は長くなるから、この問題について1,2,3と大事なところを箇条書きにしなさいと小学生の頃からそう言われてきた。会社に入るとなおさらだ。長い文章なんて忙しくて読めない。箇条書きにして出せという。上司は文句を言って、これでは足りない、あと2つあるとか言ってつけ加える。問題をしぼりにしぼって3つ箇条書きにしたのに勝手に2つ加えてしまう。そうしたら体系が変ってしまうのだ、そんなことには誰も頓着しない。

箇条書きは考えなくてすむ仕掛けである。箇条書きというのはキーワードを並べただけだ。世の中には箇条書きのままで成立しているものなどありはしない。どんな問題でも立体的にできている。そういうものは箇条書きで表せない。全ては構造と関係で成り立っている。部分と部分はつながり相互に関係しあっている。ゼロサムであったり、相乗であったり、連関であったり、二律背反であったりする。

だが、そこまでは考えない。とにかく箇条書きの企画書なり報告なりを受け取って満足している。それでわかったような気持ちになっている。日本人が特に構想力やディベートに弱いのは箇条書きが原因である。私たちは箇条書きには慣れている。箇条書きは善ということに刷りこまれてしまっている。箇条書きにするなと言われても必ず箇条書きになってしまう。だから自分で書いた箇条書きの1項目と5項目との関係は何かと聞かれても説明できない。

箇条書きというのは、まず大きさがわからない。たとえばABC三つあると、どれがいちばん大きいかわからない。AとBは重なっているかもしれない。3番目のCがAに影響を与えている可能性もある。つまり物事の構造や関係を表すには箇条書きは不適なのだ。箇条書きはそういうキーワードがたまたま出てきただけで、それを並べただけにすぎない。大事なことはキーワード同士の関係がどうなっているかということだ。したがって文章を箇条書きで書いた本社の通達文などは、現場はよくわからない。

なぜなら、書いた本人が深くわかっていない可能性が高いからだ。そういう人が書いたものがどうして現場でわかるだろうか。
しかしこの箇条書き思考はなかなか直らない。千年以上の伝統があるからだ私たちの頭の中には何でも同じように並べる癖がある。そういうDNAになっているのだ。

・図解コミュニケーション

コミュニケーション活動の活性化のためには、コミュニケーションスタイルについての吟味が必要である。ものごとの全体像と部分同士の関係をつかむことができる「図解コミュニケーション」(私の25年以上前の造語)という思考法、コミュニケーションスタイルをもっと活用すべきだと思う。文章至上主義ではあちこちに出現する信号機や不意の落石によってスピードが大幅に減速される。文章コミュニケーションが時速30キロなら、図解コミュニケーションは100キロ以上の猛スピードで情報を運ぶことができる。 

全体の構造が見える、部分同士の関係がわかることを特徴とする図解は、合意形成の武器として有効だ。鳥の目で空から問題を見る、つまり鳥瞰することが大切だ。正確である必要は必ずしもない。個々の情報が入っていて、位置関係も大まかにつかめることが重要だ。地図という言葉は、地の中に図が浮かび上がってくるという意味を持っている。人間は頭がよくないから、直接、地を見てもわからない。だから浮かび上がってくる図を見て考えたり、議論することが必要になる。

全体は部分に影響を与えながら全体として存在し、部分は全体に影響を与えながら部分として存在している。全体と部分が相互に交流をはかりながら全体としてバランスをとっている様子を表現したものが図である。

図はまず大きい輪郭を描いて、そのなかを部分で埋める。またその中の部分をまた小さい部分で埋めていく作業をする。この作業を始めると考えることが延々と続く。そして図にできあがったとき、不思議なことに人に説明ができ自分に気づく。図に描いて説明するということになると、自分の知識を加えながら、自前で説明することになる。

                                • -