「義烈館」--義公・水戸光圀の大プロジェクト「大日本史」編纂事業

黄門様という名前で知られている水戸光圀(1628−1701年)は、実は諸国を漫遊してはいない。
光圀の業績の最たるものは、「大日本史」の編纂事業を始めたことだ。
この本は着手から完成するまで実に250年の歳月がかかっているから、空前絶後の大事業だ。
歴史書編纂のために使いを出し諸国の歴史資料を収集した。これが黄門様の諸国漫遊の物語につながっていく。すけさん、かくさんは、この編纂事業の重要な仕事師だった。

水戸市の「義烈館」を訪問したが、あいにく休館日だったが、常盤神社とそれに連なる偕楽園を少し見学できた。偕楽園は「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」(孟子)からとったものだ。
義烈館の「義」は水戸藩2代藩主・水戸光圀が義公と呼ばれていたこと、また9代藩主・斉昭が烈公と呼ばれていたことから、つけられた名称であるこの二人の名君と斉昭の七男で一橋家にに養子に行った後の徳川慶喜がよく知られている。

さて、水戸光圀の偉業・「大日本史」について興味を持ったので記したい。
光圀は18歳のときに司馬遷の「史記」を読み、発奮し、日本書紀などの編年体の史書ではなく、本紀(天皇一代ごとの事跡)、列伝(天皇や皇后、臣下などの伝記)、志(文化史)、表(年表)とで構成される日本の「史記」をつくろうとした。編年体ではなく、紀伝体の歴史書の編纂が光圀の大いなる志だった。
史料の蒐集と吟味・復元を始め12年経って基本的な史料が集まったので、編纂所をつくり本格的に事業を開始する。光圀が30歳の時である。その後、小石川に移り彰考館(古を明らかにして未来を考える、の意)と改名する。

1.館に会する者は辰の半に入り未の刻に退くべし
1.書策は謹んで汚壊紛失す可からず
1.、、、若し他の駁する所あらば則ち虚心之を議し獨見を執る勿れ
などが仕事の方針だった。

この史書は、神武天皇から後小松川天皇までとし、文章の中に出典を割り註にして、研究の過程を後世に明らかにした。また南朝を正統としたことが特徴である。
彰考館はその後、水戸に移る。
光圀は73歳で亡くなるが、完成しない。列伝は没後15年目にやっとでき、それから修正が始まる。
明治維新水戸藩が無くなってからは、徳川家の私的な事業として続けられ、明治39年に、397巻、目録5巻の合計402巻が完成した。この間、実に250年の歳月がかかっている。徳川幕府の長さに匹敵する膨大な時間である。

この大プロジェクトは、着想し、構想し、計画し、実行していくという順序に250年かけた。このプロジェクトのデザインをしたのが、義公・水戸光圀である。「大日本史」編纂のこの事業は、プロジェクトデザインという観点からみると大いに参考になるのではないだろうか。