「弘道館」の創始者---水戸斉昭・烈公と徳川慶喜

水戸藩の藩校として有名な弘道館を訪ねた。
日本最大規模の藩校というだけあって敷地は広い。5万4千坪というと、私の勤務する宮城大学が6万坪だから、ほぼ同じ面積である。東京ドーム4個分という。長州萩の明倫館の4倍、加賀藩明倫堂の3倍のスケールである。

この当時の総合大学ができたのは1841年だから、明治維新の27年前だ。幕末をまじかに控えた時期であり内外の危機の打開のための人材育成が目的だった。つくったのは名君として知られる九代藩主・水戸斉昭(1800-1860年)である。激しい性格だったからだろうか、烈公と呼ばれる。
在位中に数々の改革を15年間断行したが、やりすぎて幕府から注意があり、引退する。この烈公の七男が慶喜で、後の最後の将軍・徳川慶喜である。

尊王攘夷の水戸学の地であり、「尊攘」と書いた気迫あふれる書が架けてあった。背の高い、そして動きの多い、志の高い武者のような書だった。

水戸藩藩士は15歳になって弘道館に入る。身分によって登校日が決まっており、30歳までは義務、そして40歳までは自由という決まりである。

「遊於芸」という書もあった。学問尚武に凝り固まらず、ゆうゆう楽しみながら勉強するという意味だ。この藩校では基礎科目として六芸を教えた。
礼(礼儀作法)楽(音楽)射(弓術) ?(馬術)書(習字)算(算術)。

弘道館の弘道は、道を広める人を育てるという意味だ。
正庁、至善堂、詰所、文館、武館、医学館などの建物があった。
建学の精神を示した「弘道館記」には神儒一致、忠孝一致、文武一致、学問事業一致、治教一致の5つの方針が示されている。水戸学と呼ばれる体系は、儒学朱子学)を中心に国学神道をも総合したものである。後期水戸学は国内製jの改革を断行し、国家統一の必要性を説き、頂点に天皇を位置して大義名分論を特色としていた。そのイデオローグが、会沢正志斎と藤田東湖である。
水戸学は多くの志士たちに影響を与えた。真木和泉吉田松陰久坂玄瑞など。

傑物・斉昭が熱心に教育した慶喜は、退勢覆うべくもない状況下で将軍となる。英邁と言われた将軍であったが、薩長の官軍に対してあっけなく大政奉還を行い、歴史を回転させたあとは、ひたすら静かに暮らした。一時水戸で謹慎してりいたが、駿府(静岡)で晩年というにはあまりに若く隠棲してしまう。その住居跡の名園を訪ねたことを思い出した。
慶喜に生涯仕えた渋沢栄一は、明治34年頃に伊藤博文との交わした会話を記している。
伊藤は、「今にして始めて其非凡なるをし知れり」といい、慶喜公に「維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問い試みたり」、「唯庭訓を守り氏ひに過ぎず。、、、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわすること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、、」。
慶喜の行動はこのような教えに基づいていたならば理解できる気もする。

慶喜水戸藩の後継者だったのである。