村野四郎記念館--「文学は実業による防波堤の中でなすべきもの」

k-hisatune2008-09-08

府中市郷土の森という広大な市民の憩いの場がある。博物館本館、たくさんの由緒ある古い民家群、旧府中町役場庁舎、旧府中郵便取扱所、そして桜の木、季節ごとの花々など、四季の移ろいと歴史に触れることができる大きな空間である。
この一角に旧府中尋常小学校の校舎が復元されている。教室には昔使われていた教科書などが展示されている、懐かしい空間である。この一階に詩人・村野四郎(1901−1975年)の記念館がある。この名前にはあまり親しみはないが、「ブンブンブン ハチがとぶ おいけのまわりに のばらがさいたよ ぶんぶんぶん はちがとぶ」という童謡や、卒業式でよく歌われる「巣立ちの歌」などの作詞者といえば少しイメージがわいてくる。府中出身の村野は市内の小学校、中学校の校歌を6点作詞している。
武蔵野の土地に根ざす裕福な商家で、父の代には酒、食品、建築資材、舶来のスタンダード石油の特約店にもなっている。村野家には7人の男子がおり、四郎はその名の通り4男である。次郎は北原白秋門下の歌人(後に「香蘭」を主宰し生涯歌作を続けた)、三郎は西条八十門下の詩人(独立後、商売の傍ら詩集を出す)、そして四郎は詩に関心があったのだが三郎のつくる詩に圧倒されて、仕方なしに俳句をやった。
少年四郎は、文学の道には進まず、一年目の受験は東京商科大学を失敗し、2年目は慶応義塾の経済学部に合格する。文学は好きではあったが「文学で飯を食おうなどとは思ってもいなかった」と述懐している。大学では俳句の世界で頭角を現し、卒業の前年には処女歌集「罠」を自費出版している。しかし部数は300部だったが、一冊も売れなかった。
大学時代を通じ、詩の病はますますこうじたのだが、一方で自分の詩を護るためには確固とした防波堤が要るという確信を持った。仕事をもって、その上で誰からも邪魔されずに詩作を極めていこうという姿勢だった。その考え方が後の詩壇の先導者をつくった。関西の尼埼汽船に入社するが一ヶ月で帰郷し、理研コンツエルンの本部である理化学興業に入社した。「精神のために詩を、肉体のために実業を」という考え方にもとづく長い二足のわらじの人生が始まる。このあたりの見通しと覚悟には感心させられる。文学者は文学にのめり込んで、生活破たん者が多いのだが、長期的に戦略的に生活と詩作を両立させる姿には感銘を覚える。理研は、高峰譲吉の国民科学研究所構想を、渋沢栄一らの努力で成立した研究所で、三代目の大河内正敏のときに大きく飛躍を果たした。村野は理研では、従業員300人規模の理研電具の社長にまでなるなど、実業にも注力している。そしてその生活基盤の上で詩作に励み、「現代詩の一頂点」(室生犀星)を極めていく。
50代後半の1959年に刊行された「亡羊記」は、読売文学賞を受賞する。
60代半ばで、ようやく実業界から引退するが、その前あたりから村野は、芭蕉の存在に惹かれてゆく。それまで新即物主義実存主義といった西欧の存在論を根拠に詩を追及してきたが、17世紀の後半の日本に芭蕉がいたことい大きなショックを受ける。
「日本の現代詩人たちが、海外の詩的論理にばかり眼がくらんで、自分の足もとにある日本固有の古典の価値にほとんど盲目同然であったところに、今日の現代詩のひ弱さがあることを、かつて私は、どこかに書いたけれどこれは詩にかぎったことではなく、日本の文化全体についてもいえると思う。」こういう文章を村野は残しているが、まったく同感する。文化のみならず、行政も企業もジャーナリズムも、同様の病にかかっている。
芭蕉は神社仏閣に立ち寄ってはいるが、神や仏に帰依した作品はない。己の美意識だけを頼りに奥の細道をたどり、実存を生きた。村野も長い西欧遍歴を経て、また日本に回帰するのである。
村野は「わたしは、今でもまた、たえず飢えた美食の単独者であることを、無上の栄誉と考えているものです」と「芸術」のあとがきで述べている。この美とは詩のことである。
村野は、7つ年上の西脇順三郎や、草野心平らと交遊を重ねている。
ところで、詩人の登竜門としてH氏賞という賞がある。旧知の平沢貞次郎と1950年に会ったとき、平沢は「青春時代を充実させてもらった感謝に資金を提供したい。ただし名前は伏せてほしい」という申し入れを受ける。平沢は戦前はプロレタリア詩人会を結成する詩人だったが、弾圧を受け、実業に専念し余裕があった。現代詩人会の責任者だった村野は、H氏賞を創設し、そうそうたる詩人を世に送り出して、今では詩壇の芥川賞と言われている。
「私は、はじめから、文学というものは実業による経済的な防波堤の内側でなすべきものと決めていた」。村野四郎は、その思いを日々の精進の中で遂げていった。実に見事な人生である。この人の生き方は、もっと研究する価値があると思う。