鏑木清方記念美術館(鎌倉市)

鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮への近道である小町通りを数分歩くと雪の下という住所に鎌倉市鏑木清方記念美術館がある。

小町通りには、鎌倉彫、竹工芸、呉服、民芸、和菓子、古代美術店、納豆、しらす・干物、画廊、ブティック、和服・陶器、革工芸、漬物、という興味深い店が並び、平日でもごった返す通りだ。その通りを左に折れるとこの美術館がある。

近代日本画の巨匠・鏑木清方(1878-1972年)が、1954年(昭和29年)に文化勲章をもらたt76歳からの晩年を過ごした住居とアトリエを遺族が鎌倉市に寄付し、この美術館が誕生した。
鏑木清方は長い画家生活で、築地明石町、朝涼、襟おしろい、虫の音などの美人画、涼み台、むぎ湯などの庶民生活画、慶喜恭順、大蘇芳年などの肖像画という三つの分野の絵を描いている。また、文学作品をテーマとした絵や、雑誌や新聞の挿絵も多く残している。

「秋の美」という企画をやっていた。水汲み、ほおずき、虫の音、菊、コスモス秋桜)、秋のおとづれ、などの作品を見ることができたが、「孤児院」という絵に魅せられた。上品なはかま姿の女性が孤児たちに贈り物を与える場面だが、暗い顔、疑い深そうな目、上目づかいなど、豊かな目の表情の描きぶりが目を引いた。この作品は、「最初は銅牌の賞を与えられたが、上村松園女史より一席上になった。」と述べている。

曲亭馬琴」では、28年かけて完結した「八犬伝」を題材にしたものだが、途中で失明した後は、息、琴嶺の寡婦お路に口受して続けた顛末「回外剰筆」にくわしいが、「仮名づかひ、てにをはだにも弁(わきま)へず。偏、つくりすら心得ざるに、ただことばのみを教えて書かするわが苦心は言ふべくもあらず。まいて、教を受けてかくものは、夢路を辿る心地して困じれ果てはうち泣くめり。」と文字を知らない口で述べた文章を書かせる苦労、そして書かせられる苦労を知った上で、それを絵にしている。

もともと挿絵画家として始まったキャリアの持ち主だが、「婦人世界」や「婦人公論」では、右のページが文章で、左のぺージが挿絵となっていて、白黒の小説の文章よりカラーの美人の方が目立つ。新聞の連載小説などで、作家と並んで挿絵画家が必ず並んで紹介されるというのを不思議に思っていたが、挿絵は小説のつまというより、読者にとってもっと大きな存在だったという伝統によるものだとわかる。

画室と呼ばれるアトリエは、12畳ほどの広さで、絵を描くための道具類が机の上に並んでいる。正面の扁額は「所作著御」という立派な字である。これは交流のあった尾崎紅葉の書である。
画家の絵を展覧している美術館では絵を堪能できるが、その画家が絵を描いた意図や言葉が残っている所は少ないので、何か物足らない感情が残ることが多い。しかしこの画家は絵はもちろん一級品だが、残している文章もいい。

・私は挿絵で生活を立てて来たのだが、勢い人物画に中心を置くやうになったが、肖像画を描こうといふ考へは持たなかった。、、、、人の伝記を面白く読むやうになってきた。、、、、。絵の方でも、かういう特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で描いてゆけば、肖像画もまたやりがひのある仕事となる。

代表作の一つである「一葉女史の墓」では、
・「たけくらべ」最終の章の一節「或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり、誰お仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へきく、その明けの日は信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとず。」絵にした美登利はその行間から生まれている。

・さしえは、いはば題を出されて歌や句をつうるやうなものだ。本画とはそこが違う。その点、拘束性があるわけだが、その拘束の中で仕事をすることに興味がある。この課題に対する興味が自由製作と異なるところで、それを毎日続けて行き変化させて行くところに、小説作家と似た興味も覚えていく。

・小説家と挿絵作家との関係を、私はかて大夫と三味線ひきにたとえて見た

・小説を熟読しましたうえ、画家が自分でその小説を解釈して挿絵を描くやうになったのであります。

画家は長寿の人が実に多いが、鏑木清方もこの家で93歳という天寿を全うしている。