映画「まぼろしの邪馬台国」を観た。宮崎康平とさだまさし

本日は2008年11月3日、文化の日
2004年9月28日にブログを開設して以来本日で1500日。この4年以上の間、もともと三日坊主の私が一日も欠かさず、日記・日誌を書き続けている。
ヤンキース松井秀喜の連続出場記録1768試合という数字を越えることを目標にしている」、と冗談で書いたり、話したりしてきたが、とうとうその数字も視野に入ってきた。

さて、今日は映画「まぼろしの邪馬台国」を観た。昭和40年代に全国に邪馬台国ブームを起こした宮崎康平が書いた同名の書物は、当時大学生あたりだった私の家にあり、父母の会話の中にこの書物とこの人物が話題になっていた記憶がある。このベストセラーは、後に第一回吉川英治文化賞を受賞している。

宮崎康平は、1917年島原生まれで、早稲田大学文学部時代に森繁久弥らと学生演劇に参加し、東宝に入社するが、実兄の病死で島原に帰り、島原鉄道に入社。極度の疲労から失明。妻も出奔。このときに乳飲み子を抱えて作詞・作曲したのが「島原の子守唄」である。

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さだまさしは、子どもの頃から父が懇意にしていたということでよく島原の宮崎康平の自宅によく行っていた。さだまさしにとって宮崎は最初に力を貸してもらった恩人でもあり、遠い親戚のおんじさんのような人だった。「長崎人なら精霊流しを歌え」という宮崎の一言がさだまさしの人生を変える。「まほろば」という歌を書いたとき「良い歌を書いたな。俺がやりたい仕事だ」と褒めたそうだ。「今でもこの人に褒められるような仕事をしたい、と思って必死に勉強しながら生きているのです」とさだまさしは、パンフレットの中の「宮崎康平師の思い出」の中で語っている。今日の収穫は宮崎康平の人生と、パンフレットの中のさだまさしの言葉だった。