軍人と文人---森鴎外の二足のわらじ人生

今日は、森鴎外について、少し書いてみる。

森鴎外は、小説家として記憶している人が多いだろう。実際は、小説のほかに、戯曲を書き、詩歌をつくり、史伝という分野をひらき、翻訳にも力を注いだ、大文学者である。ところがこの人はの本務は、陸軍の軍医だった。軍医としては最高位まで登りつめている。二足のわらじを履きながら、全く相いれない仕事を両立させていた人物なのだ。


日本銀行の理事から山一證券経済研究所理事長として活躍して最近亡くなった吉野俊彦氏(1915年生まれ)は、サラリーマンと執筆活動の両立という境遇を生きた鴎外に関心を持って研究した人物である。吉野俊彦は、軍人と文筆を両立させた鴎外に関心を持ち、師として仰いでいた。氏が書いた本によって、鴎外の生き方が脚光を浴びた時代があるが、今の時代ももっと陽があたってもいいと思う。

渋江抽斎、鴎外、吉野俊彦、という系譜は、二足のわらじを履きながら、仕事とライフワークを同時に高いレベルで達成しようとした人たちの系譜である。軍人という仕事とライフワークとの間に迷いのあった鴎外は、渋江抽斎を発見し、その生涯の研究に没頭した。それは自分の迷いの回答を探す旅であった。吉野俊彦も、日銀マンという誇り高い仕事と文筆の両立のモデルとその理由を鴎外に求めたのだろう。

私たちがまだ30代のころ、吉野俊彦という人物の存在を知って勇気を与えられたことがある。鷗外は時代が遠くあまりにも高い嶺でありすぎたが、同時代の先を生きている先達の姿勢に深い共感を感じるサラリーマンも多く、吉野氏は人気があった。この人の本によって二足のわらじを履いた人物としての鷗外にも親しみを持った記憶がある。

三鷹茂林寺に大きな銀杏の木の傍らに「森林太郎 言 加古鶴所 書」と書かれた森鷗外の有名な遺書がが刻まれた石碑があり訪れたことがある。「森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラス」とある。墓地に入ると「森林太郎墓」とのみ記した大きなごつい墓石があった。字はいかにも森のような、いかにも林のような字である。

遺書は東大の同期生で生涯の友人である賀古鶴所に口頭で説明しまとめてもらったもので「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎之墓と書き、書は中村不折に依託。宮内省や陸軍の栄典は絶対に取り止めを請う」とある。この文言につては、素直に故郷を愛したというように理解することもできるが、鷗外はここで初めて、自らを軍人としてではなく、文学者であることを初めて宣言した。

生きている間は軍人としての人生を全うし、死後は文人として名を残したいと考えたのであろう。