「教養論」の碩学・竹内洋先生との出会い

k-hisatune2009-09-29

「東京赤坂の野田一夫先生(「多摩大名誉学長)の事務所で、先生と久恒啓一多摩大教授とともに懇談。久恒教授は全国の人物記念館をたずねて、その事績を収集し、わかりやすく、人々に伝達するユニークな仕事をしている。近著「志」(ディスカバー・トウェンティワン)をいただく。」

週刊東洋経済最新号の「竹内洋の読書日記」第37回の冒頭に上記のように紹介していただいた。この号は「世界的名著の著者自伝に「人間と社会」と学問を考える」というタイトルで、「知の巨人 ドラッカー自伝」という本を取り上げている。「マネジメント」の発明者・ドラッカーの日本への紹介者である野田一夫先生(「現代の経営」の監訳者)との出会いを含めて記事が書かれている。当日は懇談した後、赤坂のイタリアンで3人で食事をしたが、私は金沢出張のため、30分だけ話に加わった。

竹内洋といえば、「教養主義の没落 変わりゆくエリート文化」「日本主義的教養の時代」「立身出世主義−−近代日本のロマンと欲望」などの著書がある碩学である。京都大学名誉教授で、現在は関西大学におられる。1942年生まれ。

昨年京都で行われた藤原勝紀先生が主宰するラウンドテーブルで、「偉大な人物像の世界に想いを馳せて」というタイトルで発表したとき、次のような好意的なコメントをいただいたことがある。

「偉人伝。渡辺崋山の絵本。人物伝を学ばなくなったのは不幸だ。マルキシズムの悪影響は社会科学を法則科学にしたこと。人間のない歴史。人物で時代を語る。大宅壮一の人物評論。九鬼隆一の評伝の書評。二流人物評伝。異人伝。前尾繁三郎、学問の下流化。」
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教養主義の没落---変わりゆくエリート学生文化」(竹内洋中央公論新社)を読んだ。

1970年前後まで、教養主義は大学生の規範文化であり、常識であった。人格主義による人格形成とマルクス主義による社会改良を中核とする教養主義は、大正時代の旧制高校から始まり(大正教養主義)、マルクス主義による教養主義への敵対で滅ぶかにみえたが権力による弾圧でマルクス主義が退去した。その空白地帯に教養主義が復活する(昭和教養主義)。教養主義は半世紀にわたって日本の大学に君臨したのである。本書は教養主義の形成と没落を解明した書である。

私が大学に入学したのは1969年である。全学連による学生運動の激しい時期で、安田講堂占拠とその攻防戦によって東大の入試が中止に追い込まれて全国の受験生に多大な影響を与えた年の入学生だ。私の入った九州大学は入学してすぐの5月から学生による無期限ストライキに入り、1年間ほとんど授業はなかった。大学では様々なマルクス主義者が闊歩していたが、一方で阿部次郎の「三太郎の日記」や倉田百三の「愛と認識との出発」などの必読書や、「中央公論」や「世界」などの総合雑誌を、そして漱石岩波文庫を媒介とした教養主義の流れも根強くあった。この二つの流れに乗らないのは恥ずかしいと言う雰囲気があった。今にして思えば、学生運動の高揚と退潮、そして教養主義の没落の最後の世代だったということになる。

教養主義は西欧文化の崇拝を核としていたが、日本の伝統である修養主義と双生児でもあった。修養とは、修身養心、つまり身を修め心を養うことであろう。克己や勤勉、鍛錬による人格の形成を道徳の中核とする精神主義・身体主義的な人格主義である。

大学進学率は15%未満がエリート段階と呼ばれるが、1970年には23.6%になり、高等教育のマス化が進んだ。そして大卒者のただのサラリーマン化が進行する。大学紛争の解釈として筆者は、「学問とは何か」「学者や知識人の責任とは何か」と問うた原因は、大学生である自分たちが「ただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった憤怒」であるとしている。団塊の世代の親の高等教育進学率(短大を含む)は6%、団塊の世代は22%だから、親が寄せる期待と自分たちの置かれた境遇の差にとまどった結果が暴力的な運動へと発展していったということなら置かれた状況がよく理解できる。この運動のなかで教養エリートを過酷に相対化した吉本隆明に対する共感が生まれていく。確かに吉本はあの時代のヒーローだった。そして教養主義を駆逐した大学はレジャーランドになっていった。ポスト全共闘世代は卒業資格をとることを目的として静かなキャンパスで生きていく。そしてレジャーランドの大学の住民はビートたけしによる知識人殺しを歓迎する。

高度成長を担うビジネスマンとなった大学卒業生は、教養知ではなく、技術知としての経営学ブームの中で成長していく。専門知を身につけたテクノクラート型ビジネスマンの誕生である。階級社会の消滅によって階層的に構造化されない膨大な大衆が登場してくる。これが新中間大衆社会である。先日読んだオルテガの「大衆の反逆」にある凡俗に居直る大衆が支配する社会である。この大衆社会の進行の結果が現在の新中間大衆社会だ。

筆者は、最後に教養主義が終焉した今こそ、教養とは何かを初めから考えるチャンスだと述べている。

現実の仕事を相対化し反省するまなざしとしての教養を身につけた財界や政界の実務型の知識人は、あるべき像を提供してくれる。ここ数年取り組んでいる「人物記念館の旅」の中で、経済界や官僚組織の中で、本を読み自省を重ねながら、目の前の現実に立ち向かっている教養豊かな人物も多くみてきた。そしてそういう人物像に大きな共感を覚える自分を見つめてきた。

教養人とは常に自分の立ち位置を確認し、いかに生きるかを問い続けている人である。そして人間としての生き方を磨くために修養していく。とすれば、歴史や地理、そして科学や芸術の人類の英知に学ぶ必要があるということになる。実世界の中で生きる術(すべ)としての教養という観点からの教養の再興が必要であると思う。