根津美術館を残した日本の鉄道王・根津嘉一郎(東武鉄道)

k-hisatune2009-11-02

10時から品川のサテライトで会議。昼食は、家内と都内で勤務している娘と待ち合わせて食事。

その後、青山の新装成った根津美術館を訪問する。この美術館は、実業家にして古美術蒐集に熱心であった根津嘉一郎(1860-1940年)の遺志で、コレクションを一般に公開するために、1941年に南青山の根津家の敷地内に開館した。
このたび3年半にわたる大規模な増改築を行ったのだが、設計は隈研吾で、「和」の趣を基調に、日本庭園と一体感のあるデザインである。展示室の照明はLED(発光ダイオード)を用いて、収蔵品が今までより映えるという技術だ。8万個のLEDのおかげで、光の明暗、太陽のような白い光から和ろうそくの暖かな光まで、作品の鑑賞に適した調光が可能になった。延べ床面積は今までの2倍の4000へーべ。

絵画・工芸の名品展では、国宝の那智瀧図(鎌倉時代)、四季花鳥図(狩野元信・室町時代)、和漢朗詠抄(本阿弥光悦)。「手を競う」というテーマの展示室では小野道風の書。仏教。古代中国の青銅器、仏像などを観た。

見事な庭園も散策してみた。起伏のある見事な手入れの行き届いた見事な庭である。五島慶太五島美術館、原三渓の三渓園などでも感じたが、功なった実業家の最高の人生とは、美術品を蒐集して楽しみ、死後その美術品を一般公開する美術館を残すということではないだろうか。

根津嘉一郎の略歴。
万延元年6月15日〜昭和15年1月4日(1860〜1940)
山梨県の商家に生まれる。県会議員などを務めた後、企業の株取得を通じて会社経営に乗り出す。現在のアサヒビール富国生命など多くの企業の再建に手腕を発揮した。「ボロ買いちろう」と揶揄されたほど、経営難に陥っている会社を多く買収したが、それらを見事に再建させた。ボロ会社と言われていた東武鉄道を一躍優良企業に変貌させ、また、東武鉄道をはじめとする24社にのぼる鉄道会社の経営に関係したので「日本の鉄道王」と呼ばれた。事業以外にも、武蔵高校(現:武蔵大学)の創立や、古美術収集などにも精力を注いでいた。また1904年からは衆議院議員を連続4期、1920年からは貴族院議員もつとめている。

郷里の先輩の若尾逸平から「金儲けは株に限る。株は運と気合だ」と言われ株の世界に入る。「乗り物」と「灯り」というキーワードをもらった嘉一郎は、東京電灯株を徐々に買い占め、ついに経営権を手に入れる。そして渾身の力を尽くして、東武鉄道の再建を依頼され社長に就任し、コスト削減とリストラを行い、成功する。日光線を成功させ、ボロ会社は一気に優良企業になった。

根津嘉一郎が経営を手がけた企業は、日本第一麦酒(現:アサヒビール)、富国徴兵保険(現:富国生命保険)、日清製粉などがある。

根津嘉一郎は自らを「生涯、他人に使われたことがない」と話している。多くの実業家は丁稚からたたき上げ、功労を積み、出世街道を登りつめたが、根津嘉一郎は生涯一匹狼を通し、人の下僚になり、使われた経験や人の恩顧を被った経験を持たなかった珍しい人物だ。

「会社再生の秘訣は、どこに不正と不合理があるか、その病原を退治することが一番近道である」