母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ(晶子)

k-hisatune2009-11-03

与謝野晶子は夫・鉄幹との間に実に11人の子供をもうけている。11回の出産で双子が二組あったから13人となるが、死産と直後の死亡で育ったのが11人となる。

24歳で長男光、26歳で次男秀、29歳で長女八峰、次女七瀬(双子)、31歳で三男麟、32歳三女佐保子、33歳で四女宇智子、35歳で四男アウギュスト、37歳で五女エレンヌ、38歳で五男健、39歳で六男寸、41歳で六女藤子。
つまり24歳から41歳までいつも妊娠状態だった、ということになる。その中であれだけの膨大でかつ優れた仕事を成し遂げたことに驚かざるを得ない。

これらの子供の名づけ親は、上田敏薄田泣菫森鴎外ロダンたちだった。
「幾たび経験しても其度毎に新しい不安と恐怖を覚えるものは分娩」と述べている晶子は、いつも重い出産に苦しめられていた。
「母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ」
という出産を表現した女性としての壮絶な歌も詠んでいる。

しかし子どもが生まれると、晶子はすぐに仕事と育児に明け暮れる。そうした日常の中で、先に述べた多くのすぐれた仕事を残した。そのエネルギーに驚きと尊敬を禁じえない。

ところが子供たちからみると、口数が少なくいつも何かを考えていて、いつも心ここにあらずという風情だったらしい。母の作った料理を口にしたことはない、子供たちは晶子に看病してもらったこともなかった。

与謝野家の家計は、そのほとんどが「気むずかい父の機嫌をとり、一家の経済を一人の肩に背負っていた」晶子の肩にかかっており、生活のためにあらゆる仕事をこなしたという面もあったようだ。
ちなみに、自由民主党の重鎮であり政界屈指の政策通といわれる与謝野馨氏は鉄幹・晶子の次男で外交官であった秀(しげる)の長男である。

「折々に私はこんな事を空想することがあります。私に満3年ほど休養して読書することのできる余裕を与へて呉れる未知の友人はないかと。若し万一にもさう云ふ篤志な知己が得られるなら、私は今の毎月の労働を三分の一に減じ、月の二十日間を、特に教授に乞うて帝国大学の文科の聴講と図書館に於ける独習とに耽るでせう。猶その余暇に私は東京と地方にある種種の工場などを見学して廻るでせう。私は可なり欲が深い。史学、文学、社会問題、教育問題、婦人問題等に就いて何れも多少の重みのある著述がしたい。さうして同時に修めたいのは哲学、心理学、社会学、経済学等であるのです。」

何という欲張りだろうかと、その向上心に敬意を表したくなる。もし晶子が女性でなく、出産や子育てから解放されていたら、どのような業績を残しただろうか。

恋愛、家族愛、教育、著作、作歌、あらゆる分野に抜きんでた巨人・与謝野晶子のエネルギー源は、いったい何だったのだろうか。

 年若くして世に出て、63歳で没するまで全力疾走で駆け抜けた与謝野晶子の生涯から学ぶことは多い。