宮脇俊三の「時刻表極道」人生−汽車に乗るのは手段でなく目的だ

宮脇俊三(1926−2003年)は鉄道紀行を文芸の新ジャンルとして定着させた人物である。

中央公論の編集長などを歴任したが、51歳で常務取締役を自ら退く。50歳で国鉄全線2万キロを達成し虚無感に襲われたのだ。退職後最初に書いた「時刻表2万キロ」が第5回日本ノンフィクション賞を受賞し、以後鉄道三昧の日々と執筆の日々が延々と続く。54歳では「時刻表昭和史」が交通図書賞を受賞、58歳、「殺意の風景」で泉鏡花文学賞、65歳、「韓国・サハリン 鉄道紀行」で第1回JTB紀行文学大賞、72歳では鉄道紀行を文芸のジャンルとして確立したとの理由で菊池寛賞を受賞している。76歳で亡くなったが、戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」といいういかにもというものだった。

「休みには鉄道に乗りに行っておりましたが、ほとんど誰にも話しませんでしたね。、、それを聖域として大事にとっておく、、」。現役でいる間は、そういう態度を貫いている。
52歳で退社したあと、遅まきながら作家活動を開始する。退職日は6月30日、そしてデビュー作は7月10日だった。
それ以降の主な出版物をたどる。

  • 52歳:「時刻表2万キロ」日本ノンフィクション賞
  • 53歳:「最長片道切符の旅
  • 54歳:「時刻表昭和史」
  • 56歳:「終着駅は始発駅」
  • 59歳:「殺意の風景」で直木賞候補泉鏡花文学賞
  • 66歳:JTB第1回紀行文学大賞

そして、67歳あたりから、注文に応じての取材旅行が、だんだん億劫になる

娘の灯子さん(1968年生まれ)のエッセイによると、
「60歳を超えたあたりから筆力がおち、酒の力を借りて書くようになった。」
年表をみると、52歳からの15年間が精力的に活躍した時期ということになる。
「70を過ぎた頃、父は、軽井沢でポツリとこう漏らした。「宮脇俊三も、もう終わりだな」」

宮脇俊三の文章は、実にいい。例えば、、。

  • 「自由は、あり過ぎると扱いに困る」
  • 「どうも言語というもの、一本の線路のごとくであって。面とか空間の印象をあらわすのに適していない」
  • 「彼ら(車窓風景)は見てくれと私に言う。しかし同時に、おれのことをお前、書けるのか、と言っているように思われるのだ。」
  • 「旅とは。そうした観光地を点々ととすることではなく。線、つまり道程であると考える者」
  • 「旅はほんらい「線」であった。目的地があっても、そこに至る道程のなかに旅のよさがあった。「おくのほそ道」にしろ「東海道中膝栗毛」にしろ、そこに描かれたのは「点」よりももしろ「線」である。」

宮脇自身は、こういう行為をどのように表現しているのだろうか。

  • 国鉄全線完乗という愚かな行為」
  • 「この阿保らしき時刻表極道の物語」

そして、自らのことを「珍獣」と呼んでいた。愚かで阿保らしいこの行為を、自ら時刻表極道と呼ぶところが、ファンの多い理由でもあるのだろう。

奥さんは同行しないのか、というインタビューの質問に対する答えがふるっている。
「ええ、私は汽車に乗るのが手段でなく目的だから、利害が対立して、能率半減になるんで」

学校を出て50歳までは、本業に専念し、その合間に人知れず趣味である鉄道紀行を続ける。52歳で会社を辞めてからは、プラスアルファの趣味が本業に昇格。後は全速力で息せき切って走り続けた。見事な人生である。

鉄道紀行は、移動自体が目的となっており、尋常ならざる体力と気力が要求される過酷な分野である。それでも15年間は没頭できて、その慣性でその後も仕事を続けることができている。他の分野だったら、もっと長く活躍出来たのではないだろうか。

鉄道紀行の異才・内田百けん、を継いだ阿川弘之は、早くから宮脇俊三に「衣鉢を」「譲る」と言っており、宮脇はその評価にふさわしい活躍をした。その宮脇も鬼籍に入った今、誰がその衣鉢を引き継ぐのだろうか。