2月・3月の「人物記念館の旅」の予定を組む−−九州と三重

2月から3月にかけて、九州と名古屋に出かける仕事がある。こういうきっかけを利用して人物記念館を訪ねるというのが私の旅のスタイルだ。

九州では、福岡県で未訪問の、門司の林芙美子資料館、若松の火野葦平資料館、そして豊津の堺利彦顕彰記念館あたりか。

名古屋では、細井平洲、尾崎士郎など訪れてみたい記念館はあるが、今回は少し足を伸ばして三重県はどうだろうか。松阪の本居宣長記念館は今年の訪れたい記念館のトップだ。他に伊勢の山口誓子俳句館、尾崎がく堂記念館。鳥羽の三木本幸吉記念館などに興味がある。伊勢に行くなら、伊勢神宮はじっくりみたい。

四国にはなかなか縁がなくて、ほとんど回っていないが、土佐の高知は行きたいところだ。龍馬記念館だけは訪問したことはあるが、浜口雄幸寺田寅彦牧野富太郎横山隆一、そして郊外に出てジョン万次郎、岩崎弥太郎幸徳秋水などもあり、高知県は人物が多い。
愛媛県は、最近出来た坂の上の雲記念館や子規記念館があり、また宮本信子が館長をつとめる伊丹十三記念館も07年にオープンしている。四国もチャンスをうかがいたい。

こういう旅の計画は楽しい。
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ここまで書いて、16日の朝刊を読んでいたら、日本経済新聞の文化欄に、人物記念館の情報が載っていた。
「文化」という一番大きな欄には、「田中正造を学び継ぐ」というタイトルで足尾鉱毒事件田中正造記念館の理事長が記事を書いている。2006年に群馬県館林市に開館した記念館である。この記念館はNPO法人が設立したものだ。この日経「文化」欄には2008年2月22日に私も載せてもらったことがある。「人物館 見えた縁の糸 全国220館以上を巡り、生き方と志に触れる旅」というタイトルだった。http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20080222 あれから2年、100館近く訪問数は増えている。

また、「文化往来」という小欄には、武蔵野市立吉祥寺美術館で開催中の「斉藤真一展」の情報が載っている。斉藤真一は、唄や三味線で身を立てた盲目の旅芸人、「ごぜ」を描いた洋画家であるが、山形の記念館で哀愁を誘うこの画家の絵をみたことがある。一人の人物でも、記念館以外にも企画展でまたみると違った面を発見し、それらが重層的に重なり合って、人物が立体的に深みをもってみえてくる。http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/searchdiary?word=%C0%C6%C6%A3%BF%BF%B0%EC&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail
2007年4月1日のブログから。
「「斉藤真一 心の美術館」は出羽桜美術館分館である。
斉藤真一は1922年生まれ(大正11年)というから私の亡くなった父と同世代である。倉敷市に生まれ東京美術学校を出て、中学校の教師になる。37歳の時にフランスに留学し、藤田嗣司と親交があった。帰国するときに藤田から「日本に帰ったら秋田や東北がいいから、一生懸命に描きなさい」とアドバイスを受ける。
盲目の女旅芸人である「ごぜ」に興味を惹かれて一生、そのテーマを追いかけていく。高校の教師をしながら休日は、裏日本の彼女等の足跡を訪ねていく。49歳で18年つとめた伊東高校を辞める。
高田キクエという「ごぜ」に出会い、ごぜ宿を探す旅を続け、多くのごぜの生涯を聞き出してそれを絵や文章に残していった。ごぜは、越後高田や新潟長岡に多く、3人から5人ほどがグループとなって、雪解けから12月まで村から村へ旅を続ける。雪の深い日本海側の人々にとって、ごぜの訪問は唯一の娯楽だった。三味線を弾き、祭文松枝を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち込んだ。
斉藤の描く絵は、悲しい絵であるが、赤が鮮烈である。
「赤より「赤赤」という字に惹かれてならない。赤だ何か絵の具のチューブから出したままの色彩に思えるが、「赤赤」はもっと、火のように鮮やかでパチパチ音をたてて眼底に焼き付いているような滲みの余韻を持っているから妙である」と自身が語っている。
旅の中で絵と日記が記したものを展示してあった。
「「ごぜ」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」という言葉を見つけた。
哀しい絵である。見るものに強い印象を与える絵である。
小説の挿絵を描いてもらっていた水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂白の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記している。
斉藤は文章も書けたようで、「ごぜ 盲目の女旅芸人」という本で、日本エッセイスト賞を受けている。51歳のときであった。
古い民家を使ったこの美術館は、「心の美術館」という名前である。確かに心を打つ、心に残る絵の多い不思議な美術館だった。」