火野葦平(若松)、林芙美子(門司)、アインシュタイン(門司)

k-hisatune2010-02-21

北九州市若松の火野葦平資料室を訪問。没後50周年記念展を開催中だった。以下、簡単な覚え書き。
1907年生まれの玉井勝則(後の火野葦平)は、早熟だ。12歳で画家を志望、その後夏目漱石を読んで文学を志す。15歳で「女賊の怨霊」という恋愛小説を書く。16歳では、「十七歳三部作」という1000枚の大作を書く。18歳では、童話集。19歳で四終で早稲田大学文学部に入学。20歳で、同人誌「聖杯」を創刊。21歳、志願して福岡二十四連帯に入隊。22歳、文学廃業宣言をして家業の玉井組を継ぐ。「若松港湾史」を書く。23歳、駆け落ち結婚。24歳、若松港湾沖仲仕労組を結成し書記長、ゼネストを敢行。25歳、逮捕され転向、文学に向かう。27歳、火野葦平誕生。31歳、「糞尿譚」を書き出征。32歳、従軍中に芥川賞を受賞、中国杭州で陣中授賞式が行われ小林秀雄から賞を受ける。「一大包囲殲滅作戦を体験して、将来の執筆に役立てよ」との指示があり報道部に移る。その後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」を発表し、300万部の大ベストセラーになり国民的英雄に。徐州会戦、海南島作戦に従軍。除隊後も、白紙徴用されフィリピン作戦、院パール作戦などに従軍。45歳、父母をテーマに「花と龍」を書く。47歳、洞海湾汽船給水株式会社社長。53歳(1960年)、自宅の書斎で自殺したが、このことは1972年に発表された。
「泥によごれた背嚢にさす一輪の菊の香や 異国の道を行く平の眼には空の青の色」
「幾そ度 捨てむ命ぞ 新しき 戦の庭はつづくるのあれ」
「節分(ふしふし)のせめては妻のふりせんと 丸まげ結へる女かなしき」
「順ちゃんはじめ皆がおらなんだら、葦平もなく芥川賞もなかった。芥川は、俺ひとりのものではなく、みんなのもんだ」(親友・星野順一への手紙)

ビールをテーマとした短歌も楽しい。
 ふらんすの シャンパンよりも 音高く びいるの栓抜けば 今宵もたのし
 小説をかく苦しみを 慰むは 女房にあらず びいる一杯
 君がため あれを作ると 友どちは ホップ畑を われに示しむ

従軍手帳が70-80冊あった。火野葦平は記録魔だった。縦書きの克明な記録をみた。
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門司の門司レトロ地区の看板的建物が、三井物産門司支店の社交倶楽部だった「旧三井倶楽部」だ。重要文化財で移築には大きな苦労が伴った。平成3年3月にスタートし、平成6年12月に竣工している。大正ロマンを感じさせる木造の優雅な西洋建築である。ここにアインシュタインメモリアルホールと林芙美子記念資料室がある。

アインシュタイン博士(1879-1995年)は、ユダヤ系ドイツ人で有名な相対性理論を発表した人物で、日本へ来る途中の香港から上海への船の中でノーベル物理学賞受賞の知らせを聞く。
日本は大正デモクラシーの高揚期で改造社からの招きで43日間の日本滞在だった。そのうちの一週間を三井倶楽部で夫妻で過ごしている。福岡での講演では3000人の聴衆で、その通訳は石原純だった。
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作家の林芙美子(1903-1951年)は門司生まれ。そして4歳から7歳までは北九州若松に住んでいる。訪ねたことのある新宿区中井の書斎を模した部屋がある。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里をもたない」(放浪記)
「花の命はみじかくて 苦しきことのみ 多かりき」

「女学校の絵の教師になりたい」(到る処青山あり)
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人力車で母親と一緒に門司湾のミニツアー。