「自分の世界を大切にすることだ」−−遅咲きの国民的画家・東山魁偉

東山魁夷(1908年−1999年)の風景画はいつ観ても心が洗われる気がする。

以下、最近読んだ五冊の本からの大事なところの「抜き書き」から。
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「魁偉」の魁には先駆けという意味がある。北斗七星の一番最初に位置して星の名でおめでたい字であると、後で井上靖から聞いている。

何故絵を描くのか。それがわかって来たように思えたのです。私の場合は、どうにもならぬ困った人間「だからこそ絵を描くのだということです。絵に打ち込んでいなかれば、どんなことになるかわからない始末の悪い人間であるから、一心に絵を描くことになるので、、、、。絵を描くことは救われたいからだと、、、。(昭和8年の渡欧の途中の船上で)
「自分の世界を大切にすることだと、その時、私は思った。そうすれば画家としての私は、いかに微少な世界のあるじであろうとも、何らかの存在価値が生じるのではないか。」(美の遍歴)

1946年の第二回日展には「水辺放牧」が入選、1947年の第三回日展に出品した「残照」が特選、政府買い上げとなり、風景画家としての歩みを確かなものとする。このとき、東山魁夷は39歳になっていた。1948年から日展無鑑査出品資格を得る。1959年、第六回日展出品作「道」によって、風景画家としての画壇での地位は確固たるものになった。このとき42歳と遅い旅立ちだが、それ以後大活躍する。40歳までの前半は、自己の確立ぬ向けての苦しい模索期であり、後半は次々と多彩な名作を発表し、国民的画家と言われるまでになった。

「日本列島は程良い緯度に位置し、南北に長い地形を、背骨のように山脈が縦走しています。そして複雑な海岸線で囲まれています。、、南は亜熱帯的な景観から、北は亜寒帯的な性格を持つ風土になっていて、四季の移り変わりが鮮やかであります。、、このように日本の風景は多彩な面をもっているのです。」(美と遍歴)

1962年、54歳。夫妻でデンマーク、スエーデン、ノルウェーフィンランドをめぐる三ヶ月の北欧の旅に出る。
「仕事は充実し、健康にも恵まれているが、その日その日の仕事に追われ、あわただしく毎日を過ごしている。そんな生活の繰り返しのなかで、大切なものを見失ってはいないか、そうか。日常的な鎖をいったん断ち切り、大きな自然のなかに身を置く必要があるのではないか。」

奥さんおの東山すみさん
「東山は起きてから二時間くらい体操をしていました。、、午前10時くらいから夜中1時ころまで、ずっと絵を描いています。取材旅行以外はこんな生活が毎日です。」「一歩アトリエに入ると別人になってきます」(東山魁夷を語る)

61歳。昭和44年。1969年。4月30日から9月にかけて、夫婦でドイツ、オーストリアの古都をを巡り、写生旅行を続ける。
63歳。唐招提寺の森本長老と会い、かねて打診のあった御影堂の障壁画制作を正式に受諾する。
64歳。この一年を感情和上と、唐招提寺の研究にあてる。奈良大和路の自然と歴史、文化の探求につとめ、障屏画の構想を練り、山と海の主題に決定する。
65歳。1月から各地を旅行し、山と海を写生する。秋に構図が決定し、二十分の一小下絵図、五分の一中下図を作る。
66歳。1月、中下図を実寸に拡大した大下図を作り、同時に五分の一の試作も始める。3月、大下図を仮に御影堂に取り付けて、最終的に構図を検討し、本制作に取り組む。

71歳。3年続けた黄山、揚州、桂林のスケッチをもとに、第二次期唐招提寺御影堂障壁画の襖絵42面の構想をまとめる。6月に試作が完成し、本制作にとりかかる。

第一期障壁画の主な取材地。竜飛岬、入道岬、温海、蔵王、白石、輪島、黒部、新穂高上高地安房峠、天生峠、越前岬、城崎、鞆の浦、宮島、小浜、青海島、足摺岬室戸岬、吉野、犬吠埼。海の図のために本州縦断の旅、山の図のために日本の最も山深い地域を踏破し、多数のスケッチを描いた。そして制作依頼から5年後、第一期障壁画「山雲」「濤声」が完成する。鑑真和上がついに見ることができなかった日本の美しい山と海を描いたのだ。(東山魁夷への旅)

80代に入ると、旅に出ることは少なくなった。そこで絵を描くための心の旅に出る。画家は現場で描いたスケッチを持ち帰り、画室で構想をまとめ、仕上げるから、若い時に出来るだけ多くのスケッチをしておけば、旅に出なくっても困らない。

90歳。老衰のため、70年の画業を終えて、聖路加国際病院で死去。
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