「男爵いも」−−川田龍吉男爵の55歳からの大仕事

川田龍吉は、1856年生まれで没年は1951年とあるから、江戸、明治、大正、昭和、そして戦後まで生きた95年の人生だった。「生まれは南、最後は北、江戸--昭和」と本人がいっているように、凄い人生だった。土佐出身の父・小一郎(三菱創立、後に日銀総裁)にしたがって東京に出て慶応義塾に入学する。
1878年(明治10年)に勃発した「西南の役」で新興の郵便汽船三菱会社は、政府軍の軍事輸送にあたり、急速な発展を遂げる基礎を築いた。そのため、造船工学や船舶機械に精通した技術者が必要となり、父・小一郎の「一職工から叩き上げてくれ」という願いを引き受けてくれたスコットランドの造船所長のもとに、龍吉は三菱の社船を製造していた英国グラスゴーに派遣されることになった。そして鋳造、造機、製図など多方面にわたる実地訓練に励み、その後グラスゴー大学の技芸科で最新知識を学んだ。造船所から与えられた技術証明書には、「彼は、第一級の技能者であると同時に、優れた設計者であると信ずる」と書かれてある。

父は日銀総裁として日清戦争の戦費調達に尽力したことをもって、民間人としてはもっとも早く男爵の爵位が与えれた。ちなみに小一郎に日銀で鍛えられたのが39歳で日銀に入り頭角を現す高橋是清ある。高橋は後に1904年の日露戦争の外債募集を成功させている。川田小一郎の薫陶と指導のたまものだろう。
龍吉は父の死後、男爵の爵位も継承した。そして41歳の男爵は横浜ドック株式会社の初代社長となり、現在のランドマークタワーのそばの日本丸を係留しているドックをつくる。このころ、川田は蒸気自動車ロコモビルを手に入れ、牛込から横浜ドックまでの通勤に使っている。日本人初のオーナードライバーである。順調だった経営も、軍国主義の風潮の中、国内の主要産業を兵站部と見なした軍部による露骨な干渉もあり、社長を退いた。

しかし経営危機に陥った函館ドックの再建のため、渋沢栄一らから期待され、川田龍吉と弟の川田豊吉は北海道に渡り、経営を立て直す。その後、1911年には55歳の働き盛りで専務取締役を辞し、弟の川田豊吉が後任となる。横浜ドックの社長退任と同様に見事な出処進退だった。

川田龍吉は、50代半ばの55歳にして、いわば功なり名を遂げたことになる。あとは悠々自適の生活に入るところだが、そうはならなかった。それから亡くなるまでのほぼ40年間を、さまざまな事業の企画や農事研究に励んでいる。

オランダの海外拠点であったインドネシアの首都ジャカルタに由来する「ジャガタライモ」を略してジャガイモというようになったが、このジャガイモは別名を馬鈴薯という。寒冷地での飢饉の救済に役だった。多くの品種があったが、ある品種は、品質・収穫ともにすぐれており、川田はその原名を知らずに輸入栽培した。1913年の大凶作では、近隣農家はこのイモで乗り切った。そしてこの種イモを男爵薯として出荷し、それがしだいに評判を呼んで、男爵薯の名前は不動のものになっていく。男爵とはもちろん川田龍吉の爵位である。55歳から本格的に農場経営に乗り出し、男爵いもを開発した。父が男爵の地位をもらいそれ相続したため、男爵いもと命名された。男爵薯に関する龍吉の年譜を並べてみよう。

50歳。七飯に農業用地約9町歩を購入。
52歳。輸入した種イモを七飯の清香園農場に播き付けする。この中に男爵薯の原種、アイリッシュコブラーが含まれていた。
57歳。七飯に植えた早生イモが近隣に広まる。
62歳。大野の徳川農場へ種イモとして男爵薯を分譲する。
66歳。男爵薯の成果高まる。
72歳。北海道農事試験場より道庁の奨励品種に指定される。
76歳。全道移出農産物品評会で、第一位となる。

北海道では相次ぐ凶作、不況などによる生活苦から救われたため、それを導入し、栽培し、普及させた川田男爵に対して感謝の念が強かった。恩義を感じた人々は、「男爵薯発祥の地」の記念碑を七飯町佳鳴川に建てている。55歳までの実業世界に於ける成功よりも、男爵薯という優れたブランド商品をつくりあげるきっかけを提供したことが、後々までの尊敬と感謝をもらうことになった。

函館近郊の北斗市にある男爵資料館は、男爵いもを開発した川田龍吉の資料館である。男爵資料館は、牛舎を改造した建物である。本館は一階にトラクター、芝刈り機、ガーデントラクターなどを展示してある。2階から続く震撼は3階建てで、一階はロコモビル蒸気自動車、2階は実験用具・資料文献、3階は農・林・鉱業用具などの展示。全部で5000点の資料が展示されている。この資料館ではヒゲの男爵の服装をした案内人が説明してくれるとういう趣向である。

川田龍吉が、長い長い人生を終えた翌年に金庫からスコットランド時代の恋愛の相手であるジェニー・イーディからの手紙が発見された。「サムライに恋した英国娘」(伊丹政太郎・アンドリューコビング)という本に詳しい。留学時代に地元の若い娘・ジェイニー・エディと恋愛する。ジュニーが龍吉宛に出した手紙が89通残っている。龍吉の死後、金庫から発見された手紙からこの若き日の恋愛の事実がわかった。帰国前、龍吉がジェイニーに伝えておいた住所に着いたはずの彼女の手紙は、父親が手をまわしていたこともあり、龍吉は読むことはできなかった。このロマンスは、1979年に「いもと男爵と蒸気自動車」というタイトルで愛川欣也が川田龍吉を演じたNHKドラマになった。「サムライに恋した英国娘」は89通のラブレターを読み解いたロマンあふれる労作である。著者は、このNHKドラマのディレクターだった人物である。

川田は、92歳になって近くのトラピスト修道院で洗礼を受けている。このトラピスト修道院は娘のテレジアが入り、病気で亡くなった修道院である。川田は最後はキリスト教としての人生を送る。

幕末から戦後までという途方もなく大きな時間と空間を駆け抜けた川田龍吉は、前半の実業家人生よりも、後半の55歳からの農事家としての人生で歴史に名を残したということになる。