高村光太郎−「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである」

木彫師からのちに東京美術学校の教授をつとめた高村光雲の長男として生れた光太郎は、幼い頃から木彫に親しみ、家業を継ぐつもりで育っていった。そして 14歳で東京美術学校に入学し本格的に彫刻を学ぶ。一方で詩人的資質に富む光太郎は俳句たや短歌にも目覚めていく。17歳の時には与謝野鉄幹の新誌社に参加し、早熟の才能を開花させていく。
 19歳で美校を卒業した光太郎は、フランスの名彫刻家・ロダンの「考える人」の図版に衝撃を受ける。23歳ニューヨーク、24歳ロンドン、25歳パリ、26歳イタリアと、美術・音楽・文学・演劇とあらゆる西欧文化を吸収する。
 そして28歳の時に、運命の人・長沼智恵子と会う。智恵子は、平塚雷鳥の雑誌「青踏」の表紙を描くなどの活動をしていた新しい女であった。智恵子の熱烈な求愛に動かされ光太郎も強く惹かれていく。
高村光太郎については、「智恵子抄」でその詩を愛唱したことがある。彫刻家でもあったが、断然詩人としての顔に親しみがある。高村光太郎に関する書物は実に多いが、多くは智恵子と光太郎との純愛を巡るものだ。

中学生・高校生の頃に読んだ記憶のある詩が懐かしい。
「僕の前に道はない。
 僕の後ろに道はできる」で始まる「道程」。

「あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。」で始まる「樹下の二人」

「智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。」で始まる「あどけない話」

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
 かなしくも白くあかるい死の床で
 わたしの手からとった一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」で始まる「レモン哀歌」、、、。

智恵子も才媛だった。いくつかの雑誌に頼まれて文章も残している。
「貧しく、飾らず、単純であれ
  ---生活の倦怠を如何にして救ふか--」(大正12年9月号「女性」)には、
「必要以外何物も有たないこと
 (或る程度の必要をも満たされなくても差支えないこと)=貧乏なこと。
 本能の声を無視しないこと。
 どんな場合でも外的な理由に魂を屈しないこと
 赤裸なこと。」とある。

 しかし、智恵子は狂った。
 光太郎の「山麓の2人」という詩には、そういう智恵子と光太郎の姿が垣間見える。
 「半ば狂える妻は草を敷いて座し
  わたくしの手に重くもたれて
  泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
   --わたしもぢき駄目になる」

 光太郎の弟の豊周の「光太郎回想」という本(実の弟の回想だけに父光雲や肉親との関係や、素顔が描かれていて面白い)に、智恵子の精神病の様子が描かれている。
「医者に唾を吐きかけたり、たたいたりの乱暴、、、」
「アトリエのそばの交番のところで、「東京市民よ、集まれ!」と智恵子の声がする。」
「往来にいる子供達に演説するのも度々で、どこで覚えたのか浪花節を語ったりする。」

 福島県二本松の智恵子記念館の地下の展示室には、千数百点といわれる紙絵の一部が展示されている。日常生活で目にするあらゆるものを題材に既に狂った智恵子は作り続け、光太郎が来ると恥ずかしそうに見せるのであった。展示している紙絵は美しくこころを打たれる思いがした。
「千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機知であり、生活記録であり、此世への愛情の表明である」と光太郎の言葉が胸を打つ。
「智恵子は東京に空が無いといふ
 ほんとの空を見たいといふ、、、、」で恥じ舞える「あどけない話」、
「あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」で覚えている「レモン哀歌」などの詩と光太郎が智恵子尾を語った言葉が、知恵子の紙絵と交互に並べられている。

 記念館の展示物を丹念に見ると、光太郎と智恵子の純愛、夫婦愛には心を洗われる気がする。 その智恵子は光太郎が55歳の時に没するが、智恵子はそのときでも20代にしか見えなかったという。
 
智恵子が狂った原因はなんだろか。
光太郎は「智恵子回想」という文章の中で
「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事ができた経歴を持って居り、、、」
「制作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻に持っていた。」
「---大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基づく日常生活の営みとの間に起こる矛盾撞著の悩みであったであろう」
いわば四六時中張りきっていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。」

 光太郎の詩からは智恵子への思慕の熱情が感じられるが、そういう幸せな状況の中で、なぜ智恵子は狂ったのだろうか。
 智恵子の評伝小説を書いた津村節子が、その秘密を語っている。病弱だった智恵子には、弟妹の問題、心の支えであった実家の崩壊など様々なことがらが悩ませる。しかし、「目の前にそそり立つ巌のような光太郎の存在が、彼女の心を圧していた」、そして「しかし極めて男性的な光太郎は智恵子の懊悩」に気がつかなかった。あまりにも偉大な芸術家の夫を持ったがゆえに、自らの才能の至らなさに絶望し、神経が狂ったとの解釈もあったが、光太郎は自分を守るなかで智恵子の病状が現れたと解釈している。このあたりは永遠の謎だろう。

花巻市の郊外に建つ高村山荘は、彫刻家高村光太郎が晩年の7年間(1945-1952年)に独居した山荘跡である。
 光太郎は1883年生まれだから60歳代の中盤はこの地で過ごしたことになる。山荘といえば聞こえはいいが、実際はは7.5坪(22.5へーべ)の粗末な小屋である。小屋の三分の一は土間で、6方ほどの板の間とその北川に囲炉裏があり、奥に3畳ほどの畳が敷いてあるだけである。この寒く不便な土地で独居自炊の原始生活はいかにも厳しい日々だったろうと推察する。宮沢賢治の父・政次郎との縁があり、この地に疎開した。毎年、5月15日にはいまだに「高村祭」が催されているから地元の人には親しまれたようだ。
 この小屋は現在では二重の套屋で囲われている。最初は、1957年秋に、光太郎のいなくなった小屋が傷んできたのを見かねて村人たちが覆いを被せたものである。村人たちの敬愛と愛情によって建てられた套屋は村人が1本1本持ち寄った木材で出来ている。さらに1近隣にできた高村記念館が1977年いその外側に覆いをつくった。入り口には、友人の草野心平の「無得殿」という書が掲げてあった。般若心経からとった字句である。また、光太郎の自画像もあり、そこに本人の書き付けがあった。

「十三文半
 甲高
 馬の糞をふんづけたのでのっぽとなる
 神経過敏のような、遅鈍のやうな
 年寄りのやうな、若いやうな、在るやうな
 無いやうな顔」

 近くにある記念館への道を歩いていると、詩碑があった。「雪白く積めり」という詩である。原稿用紙をそのまま4倍に拡大して碑にするというしゃれた工夫である。作曲家中山晋平の碑にも音符をつかったものがあったことを思い出した。詩人には原稿用紙が似合う。この詩は、1945年12月23日とあるから、山小屋最初の冬の作品である。

 近くにある高村記念館は宮沢家の主治医であった佐藤隆房博士が、親しく交わった高村光太郎を記念して建てたものである。ホル一つの記念館の入り口には光太郎の「思想家・彫刻家・文藝評論家・洋画家・書道家」という六つの面が掲げてある。多彩な活動を行った才人であったことがうかがる。
光太郎は近隣の山口小学校にもでかけて話をすることもあった。その小学校に寄贈した「正直親切」という書があった。光太郎には名刺にはメモをする習慣があったようで、県議会議長、盛岡市長、岩手日報出版局編集部長らの名刺に日付などが記されている。

友人の梅原龍三郎の弔辞は光太郎の姿を記している。
 常に身だしなみがよくきちんとしていて
 英リス紳士の様であった。
 酒は強くアブサントをよく独りで飲んでいた
 らしい
 稀にしか君に会わなかったが、常に第一列の
 友人と思って敬愛していた。

 光太郎の後半生に訪れた戦時の役割とその反省の行動についてはあまり知らなかったが、思い詰めて岩手の厳しい山小屋にこもり自らを断罪している。
高村光太郎は、「戦時下の芸術家」で美術家がとるべき戦時の積極的な役割について具体的に提言しており、また戦後の「暗愚小伝」において尊敬する人(岸田国士)から説得されて「協力会議」に入ることになったこと、会議の実態、そして後悔の念を記している。

「戦時下の芸術家」より。

  • 美術による国民士気の昂揚というような事も、美の純粋性によてこそはじめて充分に果せるのであって、美の深慮に基かない作品は結局逆な効果を得るに過ぎない。
  • 戦時に於ける美術の効用の方面を考えると、それは押しなべて人心荒廃の防?と、必死邁往の気の振起とにある。人心に美を浸透させる事に成功すれば、美の力は必ずそういう役目を果たす。戦時大いに美を用いるべし、戦時こそ殊に?漫せしむべきである。私はそういう意味から、一つの議題を今度の中央協力会議に提出して置いた。

「全国の工場に美術家を動員せよ」といいうのが其の議題である。情勢の進むに従って全国は殆ど一つの軍需工場化するであろう。労務に堪え得る者は食糧生産者を除く外悉く皆その労務員となるであろう。その時、重大な関心事は、人がただ機械の延長であってはならぬという事である。機械の延長に過ぎないような感じを人に持たせてはならないのである。

  • 日本全国の工場に真の美を氾濫せしめよ。それは必ずどのような緊迫困苦の時にも人心を健康に保ち、人心を長期の緊張に充分堪えしめるであろう。戦時美術家にはそういう奉公の道もあるのである。


「暗愚小伝」から 

「協力会議」」
協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬していた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員となれといふ。
だしぬけを驚いている世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になった。
一旦まはりはじめると
歯車全部はいやでも動く。
一人一人のもってきた
民意は果たして上通されるか。
一種異様な重圧が
かへって上からのしかかる。
協力会議は一方的な
或る意志による機関となった。
会議場の五階から
霊廟のやうな議事堂が見えた。
霊廟のやうな議事堂と書いた詩は
赤く消されて新聞社からかへってきた。
会議の空気は窒息的で、
私の中にいる猛獣は
官僚くささに中毒し、
夜毎に曠野を望んで吼えた。

本多秋五は、戦争中のことには口をつぐむ人が多い中、後に岩手の山中において「「それが社会の約束ならば、よし極刑とても甘受しよう」と書いた高村光太郎ひとりが例外であった。」と書いている。

光太郎は、心に残る詩を多く書いている。何故詩を書くのか。
「私は何を措いても彫刻家である。
「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである。自分の彫刻を純粋あらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。」

 戦後、高村光太郎は過去の戦争協力を恥じて、自然条件の厳しい岩手の山荘での孤独な生活を送る。
 そして、8年間のブランクの後で、十和田湖の「乙女の像」を青森県から依頼された智恵子がモデルのモニュメントの彫刻を作る。ブランクは全く感じることなくすらすらと指が動いた。マイナスであるべきものがプラスになっていた。このような長い時間を経て、高村光太郎はようやく本来の彫刻家に戻ったのだ。