森繁久彌−役者はその人物の持つ魅力が第一で、それを役者の華

 世田谷文学館で、第11回世田谷フィルムフェスティバル「名優・森繁久彌」を見た。森繁久彌(1913-2009年)は、「世田谷区船橋に在住」とパンフにある。
「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。また先般は、マスコミで皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております。」という挨拶文があり、最晩年の名優が正装して写っている。2009年11月の時点ではまだ存命だった。
国民作家という言葉があり、その栄誉を受けているのは、吉川英治司馬遼太郎くらいであるが、国民俳優という言葉があるとすれば、それは森繁久彌しかいないだろう。

 森繁久彌早稲田大学を中退した後、NHKアナウンサーとなって満州の新京(長春)に勤務し、33歳で帰国し役者を目指すが、なかなか芽が出なかった。映画デビューは意外に遅く、37歳のときに「腰抜け二刀流」(並木鏡太郎監督)で初主演をする。1950年代後半から60年代を通じて、映画での社長シリーズ、駅前シリーズなどの「森繁もの」の人気はすさまじく、55年の18本を頂点として、毎年10本以上の映画に主演している。社長シリーズは、浮気者の森繁社長に謹直実直の秘書(小林桂樹)や慎重な総務部長(加東大介)、宴会好きの営業部長(三木のり平)らを配した、どたばたの仕事ぶりを描き人気を博した。駅前シリーズは、森繁久弥伴淳三郎フランキー堺といった個性派喜劇人のパフォーマンスを生かして、駅前という象徴的場所を舞台に繰り広げられた喜劇映画である。何れも日本の高度成長期の活気を描いた映画で、私も楽しんだ記憶がある。
 そして、64年の「七人の孫」以来、70年代に入ると、森繁久彌はテレビの人となった。そして、まさに全国民が敬愛する俳優になった。1936 年以来、300本を越える映画に出演。舞台では、「屋根の上のバイオリン弾き」は、1967年9 月6日の東京・帝国劇場にての初演以来、テヴィエ役は1986年まで900回にわたり森繁久彌がつとめた名作であり、最後近くの公演を見て感動したことを思い出す。

 森繁久彌は、パチンコのリズムに芸風のヒントを得ていたそうだ。「リズミカルな動きと感情の推移」「次にどう出るかわからぬという未来を予測し得ない演技」、そういうサラリとしてしつこくなく点描して行くという二枚目半の芸風を開拓し、喜劇俳優から、実力俳優へ、そして押しも押されもせぬ、大スターへのぼっていく。この道程も興味深い。

 この人ほど、賞をもらっている人もいないのではないだろうか。
* 43歳。ブルーリボン賞毎日映画コンクール主演男優賞
* 45歳。NHK和田賞。
* 51歳。紺綬褒章
* 52歳。NHK放送文化賞
* 62歳。菊池?賞。紫綬褒章
* 63歳。ゴールデンアロー賞
* 64歳。紀伊国屋演劇特別賞。毎日芸術賞菊田一夫演劇大賞。
* 65歳。芸術選奨文部大臣賞。
* 68歳。創作集団文芸賞。
* 70歳。東京都民栄誉文化賞。日本アカデミー特別賞。
* 71歳。文化功労者
* 74歳。勲二等叙勲。
* 78歳。文化勲章
* 79歳。日本アカデミー賞栄誉賞。
* 83歳。日本映画批評家大賞

 文化勲章受章時には「わが胸に あつくもおもく たちばなの きときわ 薫る 人ひとの愛」という歌も詠んでいる。この人はただの俳優ではなく、極めつけの文化人だった。44歳で処女作を発表以来、主要著書は54冊にのぼっている。そのうち、還暦を過ぎた63歳以降の著書が43冊と多いのも特徴だ。

 「森繁久彌語り・久世光彦文」という「大遺言書」、「さらば!大遺言書」を読んだ。森繁久彌のつぶやきが聞こえる名著である。
 久世光彦は、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」などの国民的テレビ番組をつくりあげた辣腕のプロデューサーである。80年代以降、つまり40代半ばからは映像制作会社の社長となり、50代に入ると優れた小説やエッセイを書きいくつかの賞を取っている。映像と文学の世界を自由自在に往復した人だ。
 この「大遺言書」は不思議な書である。森繁久彌が「語り」、久世光彦が「文」を書いたという形の本である。インタビューでもなければ、共著でもない。確かに久世光彦の文章なのだが、この二人の位置関係は、表紙や奥付で久世光彦の名前の位置がほんの少しだけ下がっているところに現れているとも見える。この微妙な配慮がいい。二人の対話は「大遺言書」「今さらながら 大遺言書」「「さらば 大遺言書」という連作に結実した。

 「週刊新潮」で2002年5月2 日・9日号から始まった「大遺言書」の連載は、2006年3月まで続いた。卒寿を越えた森繁と、二まわりほど若い久世のどちらかが亡くなるまで続けるという約束だったが、2006 年3月2日の久世光彦の逝去によりこの人気連載も終了している。そして、その森繁久彌自身も2009年11 月10日に96歳で大往生を遂げる。

 森繁の自宅に久世が伺い、対話の最中に大いに飲み、かつ食い、そして歌うという健啖家の森繁の相手を辛抱強く務めながら、森繁久彌という大いなる人物の回想を聞き出していく。そしてその時の様子や感じたこと、思い出したこと、そして森繁久彌という人物の陰影などが生涯の師匠と仰ぐ久世光彦の名文で記されていく。久世の慨嘆、感銘、感想、感慨などもいい。これは、晩年の生き様を描いた書でもあり、人生の書でもある。読者は、森繁久彌という国民的俳優の目を通して、歴史と人間を深く味わうことができる。

 久世は、毎週原稿用紙7.5枚を4年近く書き続けたことになるが、互いの生涯を賭けた対話であったという印象を持った。書いた久世にとっても、書かれた森繁にとっても至福の時間だったと思う。

 森繁久彌という俳優は、俳優としての実力は群を抜いているが、その演技は豊かな教養に裏打ちされていると思わずにはいられない。鋭い批評眼、本質をとらえる矢のような言葉などを読むと、優れた文化人であったという思いを強くする。
* このごろの文芸作品にリズムと品格がないのは、作家に漢学あるいは漢詩の素養がないからだと森繁さんは言う。
* 長生きするということは、人と一人また一人と、別れてゆくことです。、、、この年になると、悲しいというのと違う。−−辛い
* 私にしてみれば、どの人も夭折です。
* いつだって、人の世の主役は人間ではなく、歳月です。
* 人と人との間は、どんな親しい仲でも、薄氷を踏んでいるようなものです。
* (今日もインタビューは歌で終わる。)
* 女優の華と人生とは、反比例の関係にあるんでしょうかねえ。因果なことです。
* 役者というものは、長火鉢一つで、人生をすべて表現しなければならないと言っても、言い過ぎではありません。
* 映画や芝居を見て学ぶということは、まあ、ありません。実際の人生の方が、はるかに可笑しいし、切ない。
* 味に贅沢なこの国に生まれて幸福でした、。
* 勝(新太郎)は私との二時間ばかりの放談の場を、一つの「芸」の場にしようとしているんです。あのときの「殺気」を思い出すと、今でも鳥肌が立ちます。
* 芝居の仕事は、私の「真剣な遊び」です。
* 懸命に働きはしましたが、やっぱり運です。
* 正直言うと、私は自分の映画のほとんどを、恥ずかしいから見ていないのです。
* (森繁さんは夜が更けて眠たくなるころになると、天眼鏡で「広辞苑」を眺めているのだというのだ。)
* 三割隠すところにこそ、「芝居」の真実はあるのです。
* 私は「小学唱歌」は、西欧の国で言えば「賛美歌」だと思います。
* 「小学唱歌」や「文部省唱歌」には、いまとやかく言われている「歴史観」や「国家観」や「国の心」とかいうものが、全て柔らかで優しい形で含まれています。

 早世した向田邦子、松山英太郎、そしてその才能を可愛がった樹木希林など森繁久彌が愛した才能などの話も興味深い。その久世は、師匠・森繁久弥よりも早くこの世を去ってしまう。

 最初の自伝「森繁自伝」は49歳の時に世に出ているから、早すぎるのだが、後の活躍を暗示させる心構えや考え方が随所にある。
「女房やセガレがどんなにボヤこうが、私はあくまで一世一代で、すべてが私と共にあり、私と共に無くなるのである。」
「私は、私のフトコに入った一切の物心を、正常にハキ出して、静かに一物もまとわず、うらみがましくない顔をして墓石のもとに迎えられることを望んでいるのだ。」
そして、最後の文もいい。「目下開店中の八百屋のような万うけたまわりの芸術屋(アルチザン)を整理して、新しい冒険に船を漕ぎ出さねばなるまい。このまま立ち枯れるには、まだチット血の高鳴りが邪魔になる人生五十年である。」

 15年後に文庫本に書いた「あとがき」(昭和52年)には、「今日、60数歳になって、役者は技巧だけではどうにもならぬものと悟らされた。役者はその人物の持つ魅力が第一で、それを役者の華とでもいうのだろう。つまりは役の人物と本人とをまぜ合わせてお客の心に生きるようにならねば、人は銭を払って見に来てはくれぬことを知った。」とある。

 大先輩の「役者はピンとキリを知っておれば、真中は誰でも出来ます」という珠玉の言を得て、その言葉が役者道にも人生にも左右するほど影響したと述懐している。森繁は、舞台を「瞬間芸術」といい、その一瞬の間に役者は命をかけると表現している。そして、「、、今日の新聞のように、今日の民衆の中で生きるその華々しさが演劇の華であろう。」ともいう。

 84歳で書いた著書「ふと目の前に」では、「どんなことでも、私の身体や心の中を通ったことでなければ書けない男である」と自分を規定した上で、「芝居にしろ映画にしろ、テレビも含めて、役者は全身をさらしているのだ。心もまる見えである。だから人間の陶冶が、その人も売れるのと同時に並行して必要なのだ。」といい、「芸人とは、芸の人でなく芸と人ということではないかと思い始めた。、、なべて「人」を失っているかの感なきにしもあらずだ。人が人たるを失って、世の中に何があろう。」といいう味わいの深い発言をしている。

 若い頃の森繁久彌は、やや軽い顔をしているが、だんだん顔が良くなって、晩年になるほど「いい顔」になっている。俳優という職業に命を懸けて少しづつ内容が磨かれて、それが何とも言えぬ風格のある晩年の顔に凝縮したのだ。
−−−−−−−−−−−−−−
本日6月2日は、民主党政権鳩山首相退陣という慌ただしい日。
Twitterのフォロワー数は1800。