泉屋博古館(住友コレクション)、大倉集古館(ホテルオークラ)

このところ休みがなかったので気分転換。
年内の「人物記念館の旅」は、経営者にターゲットを絞って訪問することにした。偉大な経営者が遺した美術館が中心になるが、そういった美術館で人物をしのぶという趣向である。関東と出張を予定している関西を中心にまわることとしたい。

本日は、六本木一丁目のホテルオークラ周辺を歩いた。
まず、平成14年に泉ガーデン内に開館した「泉屋博古館分館」を訪れた。京都で開館してきた住友家の旧蔵品を蒐集した(財)泉屋博古館が、東京に分館を開設して広く鑑賞の機会をつくった。住友コレクションとして世界的に有名な中国古代青銅器、そして明末清初の作品を中心とする中国絵画のコレクションは、住友家第15代の住友吉左右衛門友純(春翠)が30年に亘って集めた蒐集品が根幹になっている。

住友家は四国愛媛の別子銅山から生まれた財閥であるが、この分館は別子銅山開抗300年の記念事業で、住友の名前を冠にした企業19社が協賛している。

  • 初代正友(1585-1652年)は商売の心得書「文殊院旨意書」を遺している。
  • 初代総理事・広瀬宰平(1828-1914年)は、9歳で別子銅山に入り38歳で支配人になった。住友の事業精神をつくった人だ。「信用を重んじ、確実を旨とする。浮利に走らず」
  • 伊庭貞剛(1847-1526年)は、広瀬の甥で裁判官から住友入りした。「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」
  • 7代・古田俊之助(1896-1953年)は、住友金属のエンジニアで20万人を率いた。1946年の財閥解体による住友本社解散にあたって「住友の各事業は兄弟であり精神的に提携してやって頂きたい」と訓示した。

特別展は、「幕末・明治の超絶技巧−世界を驚嘆させた金属工芸・清水三年坂美術館コレクションを中心に」をやっていた。

  • 1章は江戸時代の「拵(こしらえ)と刀装具」で刀関係の彫金。
  • 2章は明治金工の雄の紹介。江戸の刀装具職人は明治になって金工作家となった。

加納夏雄は伝統と品格。海野勝萊(1844-1915年)は優雅と端麗。正阿弥勝義(1832-1908年)は粋な遊び心。東京美術学校の教授となった加納と海野と違って正阿弥勝義は岡山と京都で仕事をしており、76歳の時に「拙くも 文もよまねば 知恵もなし ただひとつなる 家の業かな」という書を遺していた。

  • 3章は「明治金工の諸相」。日本政府は1873年(明治6年)のウイーン万博では美術工芸の輸出をもくろみ出品。1877年(明治10年)には第一回内国勧業博覧会を開催、そして1890年(明治23年)には帝室技芸員制度を導入。しかし、押し寄せるヨーロッパ美術の前に金工職人は現れなくなった。

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ホテルオークラ本館の前に中国風の「大倉集古館」が建っている。大倉喜八郎(1837-1928年)が創立した美術館。1917年に誕生した我が国初の私立美術館である。関東大震災で一部消失したが、倉庫に残った所蔵品を中心に1928年に再び開館。長男・喜七郎(1882-1963年)が喜八郎の遺志をを継ぎ近代絵画の充実をはかった。所蔵品は日本をはじめ東洋各地の絵画、彫刻、書跡、工芸など広範にわたる。
大倉喜八郎は、新潟県新発田市の名主の三男で、18歳で江戸へ出た。鰹節屋の丁稚、鉄砲商を経て、日本初の貿易商社「大倉組商会」を設し、後の大倉財閥の基礎をつくった。教育、文化、福祉にも大きな貢献をしており、学校や福祉施設にも関わっている。大倉集古館は、日本の文化財の海外流出を防ごうとして50年かけて蒐集した美術品が中心である。日本初の私立美術館として公共に寄付をした。大倉鶴彦翁像は高村光太郎(1883-1956年)の作だった。

大倉喜八郎が足跡を印した企業や学校は以下の通り。

大倉喜八郎の豪快な生涯」(砂川幸雄・草思社)。
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「菊池𥶡実記念 智美術館」。戦後三大富豪と言われた実業家・菊池?実の長女・智がつくった美術館。このことは明日書く。