「吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」(北康利)

吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし

吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし

「あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいる時に登場され、国民の苦悩をよく受けとめ、自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め、もっとも困難な時期における指導者としての責務を立派に果たされました。、、、あなたは、なにものにもまして祖国日本を愛し、誰よりも日本人としての自負心を抱いておられました、、、」。
遅咲きで67才で総理になり、76歳まで第5次にわたって組閣し、89歳で亡くなった宰相・吉田茂(1878−1967年)の国葬の葬儀委員長を務めた佐藤栄作首相の弔辞である。
吉田茂は第一回の生存者受勲で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父・健三の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。

終生のライバル・鳩山一郎との長い確執の果てに、吉田の後継候補であった緒方の自由党と鳩山民主党は1955年に合同し自由民主党が結成される。吉田から政権を奪った鳩山は自由民主党の初代総裁となった。その自民党は2009年の総選挙において、吉田の孫である麻生太郎から鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が政権を奪っている。まさに因果はめぐる。
因みに1950年の自由党役員改選において、小沢佐重喜が幹事長に推薦される一幕があった。この小沢は、民主党小沢一郎の父である。

軽武装と引き換えに経済復興を優先する吉田の政治手法は、後に「吉田ドクトリン」と呼ばれ、成功する。そして吉田の最終目標は独立国の完成であった。アメリカとの同盟関係で防衛を依存することで吉田は、国民から覇気が失われることを恐れていた。そういう形が長く続けば、国の形をとってはいても、植民地と変わりはない。吉田ドクトリンはある過渡期における国家戦略であったのだ。
これに対し、鳩山は、日米安保破棄、早期改憲、自主的な軍事力整備、そして日ソ国交回復が持論だった。孫の鳩山由紀夫日米安保の見直し、北方領土問題解決へのこだわりは、一郎の路線の延長線上にあった。

一度政権を退き返り咲いた吉田は結局6年二か月という長期政権を担当している。日本の歴代総理の中では、桂太郎伊藤博文佐藤栄作、に次ぐ記録である。小泉純一郎内閣は近来まれにみる長期政権であっったが、それでも5年5か月だった。

所得倍増計画の池田、沖縄返還を実現した佐藤という吉田学校の優等生が、長く政権を担当し、吉田茂は隠居先の大磯で長くアドバイスをし続けたから、吉田の目標であった「独立国」へ向けての道を歩み続けたことになる。そういう意味で吉田茂という政治家は戦後もっとも影響を与えた政治家ということができるだろう。

この本には、そういう経緯とともに、あるべき政治家像を語りながら、今日の政治状況に対する著者の義憤が垣間見える。吉田茂が見た夢を自分たちの世代で終わらせたくないという強い意志によって書かれた本である。

戦後65年経った。そして冷戦後20年経った。そういう地点にいる日本は、吉田の恐れたように「覇気」がなくなり、「独立心」が希薄になっている。惰性に流れることなく、国の行く末を考えねばならない時期に来ている。