北里柴三郎の「終始一貫」人生

大分県熊本県の県境を超えて北里柴三郎の故郷・小国町に入る。こんな山村の僻地からあの偉人が出たのかと驚く。柴三郎は研究者としての几帳面さを父から、そして指導者としての性格を母から引き継いだ。北里が生まれた1853年には肥後国阿蘇郡小国郷北里村という地名で、まだ江戸時代でペリー提督が浦賀に来た年である。また明治天皇も同年生まれだ。数日後、熊本で熊本日日新聞を読んでいたら、小国町の町長選挙の立候補者の若い青年が出ていた。苗字は北里だった。因みに現町長も北里という苗字だった。この家はこの地域の名門である。

北里柴三郎は、両親のもとを離れ漢学の手ほどき受けている。13歳で熊本の私塾に入り、藩校時習館を経て熊本医学校に入学し、オランダ人医師マンスフェルト(1832年生)の教えを受け、助教としても活躍し、3年ほど在籍している。
1875年(明治8年)に年齢を偽って20歳を超えて東京医学校(のちの東大医学部)に入学する。在学中に医道論を書き、「医者の使命は病気を予防することにある」と考え、公衆衛生を生涯の仕事とすることを決意した。
1883年に卒業後は内務省衛生局(長与専斎・1838年生)に奉職する。北里の卒業時の席次は26名中8番だった。東大の同期には文学部の坪内逍遥、哲学科の三宅雪嶺がいる。その後1886年から中浜東一郎(ジョン万次郎の息子)とともにドイツに留学し、病原微生物学の父・コッホ(1843年生)のもとで6年間大活躍する。コッホは1905年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。コッホの口癖は「しばしも怠るなかれ」だった。ここでライバル・後藤新平(1857年生)と終生の友人となる。破傷風菌の純粋培養、破傷風の血清療法の確立、ツベルクリン療法などの業績によって「世界の北里」になる。ケンブリッジ大学など超一流ンの大学から破格の待遇で招かれるが、故国のために尽くすという信念からすべて断っている。
1892年に39歳での帰国後は、福沢諭吉(1835年生)からと土地の提供を受け、芝公園に建坪10坪の伝染病研究所を発足させ所長に就任する。1894年には香港でペスト菌を発見するなど予防医学の先駆者として活躍する。福沢は「学者を助けるのはわたしの道楽だ」といったそうだ。
「古来から、この日本では、学者は必ず貧乏で、金持ちは必ず無学だった」「「学者も実社会、世間を対象にしてこそ生きると思う」「世俗と関係してこそ、学問も生きる。実学にサイセンスとルビをふりたい」「学者は雁主であるべきだと思っている」「
1914年には研究所の帰属の問題で所長を辞し、私立の北里研究所を設立する。この時代の正月の書初め漢詩を書いている。
「奏功一世 豈無時 奮闘由来 吾所期 休説 人間窮達事 苦辛 克耐是男児」
また結核専門のサナトリウム「土筆ケ岡養生園」をこれまた福沢らの協力で開いた。この養生園で衛生的に問題が生じたときの福沢の書簡が残っている。
「凡そ大業に志す者は畢生の千辛万苦に成るものなり。細々百事に注意して辛うじて目的の半に達するの常なり。此一段に至りては、長与氏も北里氏も共に責を免れるべからず。、、」と叱責を受けている。
恩人・福沢の死後には、恩に報いるため慶応義塾大学に医学部を創設し無給で初代の学部長として11年という長い間尽力する。医学に関する社会活動も多岐にわたり、日本医師会の初代会長もつとめている。北里は赤痢菌を発見した志賀潔(1871年生)などを育て、野口英世(1876年生)も世に送り出している。1931年に「終始一貫」を座右の銘とした人生を78歳で生涯を閉じる。生涯に受けた栄誉は数しれないが、1924年には男爵の爵位を受け、1931年には勲一等旭日大綬章を受けている。

在学中に書いた「医道論」はその後の北里の考え方の骨格を示している。

  • 人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐのが医道の基本である。
  • 病気を未然に防ぐ為には、病気の原因と治療、つまり医術を徹底的に理解しないと達成できない。

北里は東大を出たが、終生にわたって東大派とは闘いの連続だった。
それは脚気の原因についての見立てから始まる。熊本医学校時代の同僚で恩義のある東大の緒方正規教授の「脚気菌」説への反対意見を公表したところ、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は、「情を忘れた」ちお反発し、加藤弘之東大総長も「師弟の道を解せざる者」と非難した。しかし鈴木梅太郎がビタミンBを発見し北里たちの勝利で終わる。その後も、コッホが北里を重要視し東大教授が恥をかくなど両者の確執は続く。

北里研究所の開所式での挨拶。
「その研究の成績というものは実際上に之を利用することが出来ませねば、人生に何等の効果を及ぼすことは出来ない次第であります。」
沖縄県結核予防協会発会での挨拶。
「科学の研究に従事するものは、常に自己の専門以外の学科の進歩に絶えず注目して、之を利用する事に努ねばならぬことと考えます。
「諸君、総て学問の研究は学者の単一なる道楽ではありません。研究の成果を成るべく適切に実地に応用し以て国民利福を増進するのが学問の目的でありましょう。」