東京とパリの周恩来。現代に生きる親鸞。震災と日本再生。

26年間という四半世紀を超える長い期間、中華人民共和国の総理として働いた不倒翁・周恩来の若き日の姿を書いた本を二冊読んだ。周恩来は天津の南海学校を特等の成績で卒業した後、日本の東京高等師範第一高等学校などを受験する神保町の予備校・東亜高等予備校に通う。しかし失敗。帰国後一年ほどして、今度はパリに遊び中国共産党員とし1976年死去。て活躍する。26歳で帰国し、以後長い革命生活に入る。1972年田中角栄首相と日中国交正常化に調印。
日清戦争で日本が勝利した以降、中国からの留学生が増える。孫文(1899年)、魯迅と周作人(1902年)、陳独秀、郭末若。

周恩来「一九歳の東京日記」』(矢吹晋編・鈴木博訳:小学館文庫)を読了。

周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫)

周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫)

1917年9月から1919年4月までの東京滞在日記。
「この日記は今日から書き始める。ただし、今日から一日も欠かさず記し、記念として残したい。」「今後、この怠け癖を治さなければなるまい。」「まじめに勉強しなければ、どうして立派な人間になれよる!」「一日は睡眠7時間、勉強13時間、休憩その他が3時間半、、」「菜食、不婚の二大主義、、」「友に負け自分に負け、自暴自棄だ!悲しみにたえられない!」「官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」

「パリの周恩来」(小倉和夫)を読了。

1920年12月から1924年7月までのパリを中心とする西欧滞在を描いた力作。1938年生まれの外交官・小倉は周恩来のヨーロッパでの跡を追い、幾多の書物を読み、若き周恩来に西欧体験が与えた影響を記している。周恩来マルキシズムに触れる機会を持ったのは一年半の日本滞在の時だったと著者は分析しているが、「東京日記」にはそういう記述は見当たらない。

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インターゼミ(社会工学研究会)の第3回目。「アジアダイナミズム」「多摩学」「エンターテイメント」「震災と日本再生」という4つのチームとメンバーを決定した。私は「震災と日本再生」チームを担当することにした。

寺島学長の語ったキーワードから。
空海最澄。「現代に生きる空海」。
「現代に生きる親鸞」。法然の浄土宗。善人なおもて往生す、いわんや悪人おや。この絶対平等主義。権威を恐れない。これが日蓮一向宗につながっていく。
2000年前のキリスト教大航海時代に中国・韓国・日本に伝わったというのはおかしい?635年に景教として中国に伝わっていた。638年に景教寺院(ペルシャアルペン)。空海の中国には4000人のペルシャ人がいた。気がついていたはずだ。中国僧・善導(中国浄土宗の大成者)から法然はひらめきをえた。キリストは仏陀の影響を受けていたのではないか?
和辻哲郎「日本精神史研究」 の中でイエズス会神父が「日本人の理解力が凄い」と言っている。内村鑑三「わが兄弟・親鸞」という言葉。親鸞の考え方はキリストの考えに似ている。絶対平等。
相関!
親鸞は目線が低い。非僧非俗。初の妻帯者。7人の子供。凡庸。地震・貧困との格闘。日蓮は行動
政治に興味。それが創価学会につながる。
なぜひらめいたか?なぜ思いつかのか?どこから生まれたのか?薄皮をはぐように。
三種のアプローチ:演繹法(文献)・帰納法(フィールドワーク)・仮説法(ひょっとして、、かも知れない)。17世紀オランダ論。震災復興のシナリオ。
踏み込んで。苦闘せよ。闘う力を持て。地頭をつけよ。解決していく。

その後、各チームに分かれて研究計画作成に向けて議論。私は長田先生と一緒に「震災と日本再生」チーム。連休中にこのたびの震災に関する事実を確認するために、新聞・雑誌・インターネットなどの情報の切り抜きを各自でつくる、その上でテーマを選ぶことになった。地方紙・ブロック紙。チーム内の情報共有、コミュニケーションのためにFACEBOOKを徹底活用することになった。今年は本腰をいれて私も関わっていきたい。関東大震災の帝都復興院総裁・後藤新平の構想力の話も話題に出しておいた。