奈良本辰也編「日本の私塾」(淡交社)

奈良本辰也編「日本の私塾」(淡交社)を、興味深く読んだ。

日本の私塾 (1969年)

日本の私塾 (1969年)

この本が出たのは昭和44年である。私が九大に入学した年だ。東大が紛争によって入試が中止された年である。編者の奈良本が著名な歴史学者であるが、その年の1月に立命館大学の教授の職を辞している。それは太平の夢をむさぼり続けてきた大学への絶望に起因している。
奈良本は、大学の再生のために、二つの道があるという。一つは情報産業の時代にふさわしい大学だ。大学の巨大化を推進し知を全国民のものにするという方向である。もう一つは、学問を教えるという原点に返って、日本の江戸時代に盛んであり、多くの有為な人材を輩出した私塾である。ここではマスによる教育ではなく、師匠と弟子という濃密な関係の中で人格形成も含めた全人的教育が行われていた。この私塾は昌平黌を頂点とする官学としての藩校への対立物として生まれた。いわば私学の源である。私塾では優れた学者と、優れた指導理念があった。

この本は、私塾でいかなる教育が行われたのかという観点から、11の私塾を5人の著者とともに観察、分析した書である。
吉田松陰松下村塾中江藤樹の藤樹書院、伊藤仁斎の古義堂、菅茶山の廉塾(黄葉夕陽村舎)、広瀬淡窓の咸宜園、本居宣長の鈴の屋、大原幽学の回心楼、江川英龍韮山塾、シーボルト鳴滝塾緒方洪庵適塾、中井愁(?)庵の懐徳堂
明治維新で活躍するそうそうたる人物を多数輩出した、私塾の中の私塾「松下村塾」は編者の奈良本が担当している。他の私塾は他の書き手が担当しているが、文章のトーンが同じ音色であるのが不思議に感じた。相当の議論と書き手の力量の平準があり、やはりこれは編者の力であると思わざるを得ない。

松陰は、ものを覚えさせるのではなく考えさせることを主眼としていた。すべてをわが身に引きつけて読み、主体的に考えることの喜びを呼び覚まさせた。その教育が久坂玄瑞高杉晋作前原一誠伊藤博文山縣有朋らを生んだ。

仁斎は、5つの戒めを説いている。「学は日新を貴ぶ」「其志を立つること大なるを欲す」などが眼をひくが、常に「すべからく天下第一等の人となるを志となすべし」」と常に語っていた。

淡窓は、月旦表という相撲番付のような学問の序列と、塾生の自治生活の指導者とをリンクさせた。またカリキュラムが実に工夫を凝らしてあった。人間の優劣は点数で評価できると考え、それを体系化した。この咸宜園は門弟5千人を数え、全国から入門者があった。

宣長は、人間の自然な感情の発露を大切にし、そういう国柄である日本は儒教仏教という外来思想を排斥する講義を行っている。、伊勢神宮への参道にあった松坂での新しい考え方は、日本全国に広っていき、明治維新へと連なっていく。

シーボルトは、長崎の谷あいの塾舎で100名を超える若者にヨーロッパの最新の知識を教えた。塾生たちにテーマを与えオランダ語で論文を書かせ、それを自分の勉強の材料とするという方法で自身の日本に対する知識を増やしていった。高野長英などそれらの人々は、各地で医療の分野などで活躍していく。

洪庵は、学問の実力によって塾内での立ち位置を決めるという方式をとり、勉学は厳しかった。その厳しい学問修行が、キラ星のごとき多数の人材を世に出すことにつながっていく。

今日の大学のゼミはいわば、この私塾である。先生自身が優れた教育者であるか、そして教育理念はどのようなものか。改めて自身の教育活動に問いかけてみたい。

そして奈良本達也が指摘しているもう一つの課題「情報産業の時代にふさわしい大学」というテーマにも、その後40年経っているのだが、大学は対応しきれているだろうか。この点も未だしの感が深い。

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九段サテライトで、学部同窓会・大学院同窓会と協力体制について相談。
その後、インターゼミ。