ETV特集「暗黒のかなたの光明〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」

ETV特集「暗黒のかなたの光明〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」。本日22時半より。「昨年亡くなった「知の巨人」梅棹忠夫の幻の書「人類の未来」の資料を元に作家荒俣宏さんが東日本大震災で様々な価値観がゆらいでいる今、識者と共に文明の行く末を考える。」

以下、引っかかったキーワード。
人類の未来。暗黒のかなたの光明。悲観論。墓穴。科学は人間の業。知識生命体。知的探究心。フィールドワーク。比較文明学。敗戦はしがらみからの解放。天然の無常。理性対英知。キリスト教は生き残り戦略、犠牲、ノアの方舟仏教は全員救助、法華経の比喩品(ひゆぼん)、三転火宅図。アマチュア思想家宣言、カメラのように、市民の力。地球水洗便所説。英知に光明あり。

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北里柴三郎は、東大医学部を8番で卒業した。優れた成績ではなかったため文部省推薦の留学生にはなれなかった。内務省衛生局長の長与專斎を訪ね、衛生局に入ることになる。その時、後藤新平の下につけと言われる。
「わたしは最高学府を終えた者です。、、後藤のような男とは教養を異にします。その下風に立ったりはできません」と言った。後藤は福島県須賀川医学校出だった。長与は後藤を勧誘し衛生局に入れる。
年上の北里は後藤の半年後に入局し下についたが仕事は違った。「いけすかない男だ」と思った。後藤は「横文字好きの青二才」と北里を軽蔑し、北里は「浅学の田舎医者」と揶揄した。後でわかるが、後藤の面倒をみた安場安和は横井小楠の高弟であり、北里は横井の門弟から指導を受けた孫弟子である。二人は犬猿の仲だった。

後に北里はドイツ・ベルリンのコッホのもとに行く。ここで大活躍をする。この研究室に2年先輩の陸軍の森鴎外が派遣されてくる。この鴎外のおかげで北里は予定年限を超えて研究が可能になる。

また、北里がベルリンに来て4年以上たって、後藤新平がコッホ研究室に入ることになる。ここでは後藤は北里の下に入ることになる。最初は内務省の序列では後藤が上だとかいうことで悶着があったようだが、二人は喧嘩を通じて、最後は盟友になっていく。

後に北里の帰国後、東大閥と対峙した北里は伝染病研究所をつくるときに、後藤の口利きもあり、福沢諭吉の土地を手に入れることができ、北里の獅子奮迅の活躍が始まる。

福沢が亡くなったあと、慶応義塾に医学を創設し、北里は福沢の恩に報いるため、その初代医学部長を長い間、無給で引き受けている。

森鴎外は、山等本科30名中4番だった。陸軍に入った出世頭小池は10番だった。肋膜炎で半年遅れで卒業した鴎外は東大医学部の卒業時に8番の成績だったので留学することはかなわず陸軍に入る。病気もあり卒業が半年遅れたこともあり、鴎外は最初1年半ほど昇進が遅れていた。中佐相当官のときにやっと追いついてきて、3番目になる。少将相当官の軍医監に1年ほど遅れてなり、その後小倉に転任する。鴎外は同期の小池による左遷人事だと怒る。事実はそうではなく順当な、あるいは重点人事だったという説もある。しかし数年後、第一師団軍医部長となり、後に鴎外は中将相当官の陸軍軍医総監に昇進する。

小倉時代に小池が訪ねてくる。その時の日記には「服を更めて梅屋に候じ、(局長)の命を聴く。晩餐を羞めらる」とある。この敬語は上官に対するものである。上官に対しては公式の席では、閣下だった。上昇志向の強い官僚・鴎外は自らの処遇に対しては極めて敏感だった。どのような気持ちで同期の上官に接していたかは想像する以外にないが、「修業」だと考えていた節がある。
「小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据えてくるる処に「すわり、働かせてくるる事を働きて、其間の一挙一動を馬鹿なこととも思わず無駄とも思はぬやうに考え居り候へば、、、、」という手紙を母にあてて送っている。
いつまでも怨まずに与えられた仕事に奉公することが大事だ、これも修行だと言い聞かせている鴎外がいる。

鴎外は仕事が順調なときには創作活動も快調というタイプだった。公務の繁忙は創作意欲を刺激させた。

北里と鴎外の人生は、組織人として、年下や同期生が上長になったときの対処の仕方を教えてくれる。

(資料:北里柴三郎 雷(ドンネル)と呼ばれた男」(山崎光夫)。「時代の先駆者 後藤新平」(御厨貴)。「両像・森鴎外」(松本清張)。「評伝 森鴎外」(山崎國紀)。)