「柳田国男と梅棹忠夫」(伊藤幹治)

著者は、青年期の9年間を柳田国男(1875-1962年)から指導を受け、壮年期の14年間を梅棹忠夫(1920-2010年)の身近で仕事をするという稀有な幸運に恵まれた人である。この書は、一国民俗学を構築した柳田と比較文明学を構築した梅棹を比較しながら、両者の業績と特色を整理している。

柳田国男と梅棹忠夫――自前の学問を求めて

柳田国男と梅棹忠夫――自前の学問を求めて

  • 梅棹は、科学には3つの要素があり。実証的事実の蓄積(実証性)、その内的関係をみやぶる洞察力、発想力(仮説性)、全体をおおう論理的体系化(体系性)だ。二人は実証性と仮説性の中にいていつも緊張状態にあるという。両者が強くない体系性を論理と読み替えて、「つらぬく論理」と「つらなる論理」があることつらねる論理で学問するためには、論文をたくさん書く必要があり、そのためには長生きしなければならないと言っている。
  • 「通文化」は縦につらぬくこと、「連文化」は横につらなること。諸文明をつらぬく理論と、諸文明をつらねる理論によって構築されるものが比較文明学である。
  • 日本文明の基本的文法は、折衷と置換の拒否であり、習合、融合、混合を認めず、並列、並存、共存というやり方で処理することである。
  • 梅棹は、拙速を避ける。決断をすると不退転の決意でのぞみ、形勢不利になると即座に撤収する。
  • 梅棹は、芸術家のリーダーと芸術のプロデューサーであった本阿弥光悦(1558-1637年)を理想とした。学問の世界における「光悦村」を目指し、成功した。
  • 人文系の論文の弱点を指摘した文章が辛辣だ。「問題がはっきりしない。方法の記述がじゅうぶんでない。事実と解釈との区別が明瞭でない。他の研究者の説と自己のオリジナルな主張との区別があいまいである。表題が不適切である。文献のとりあつかいが粗雑である。文章が難解である。用字・用語にあやまりがおおい。そのほかあげだしたらきりがない」。
  • 研究業績展示用の書架の設置、広報誌に刊行物一覧の掲載、館長室の書棚に著書、というように研究業績を公示した。
  • 大阪市助教授時代に、自宅の「金曜サロン」で自分を助けてくれる有能な人を育てた。
  • 両者とも、欧米直輸入の「借り物の学問」を排除し、揺るぎない「自前の学問」の構築を目指した。
  • 60歳を迎えた時期を境に、両者ともライフワークとなる一国民俗学と日本文明論に本格的に取り組んでいる。柳田は農村を中心とする近代日本、梅棹は都市を中心とする現代日本に焦点を絞った。

「お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」。還暦祝賀会は「呑気な江戸の町人隠居のやること」(柳田)
梅棹の還暦記念として比較文明学シンポジウム「文明学の構築のために」が開催された。梅棹は「生態系から文明系へ」という基調講演を行った。37歳の「文明の生態史観」から20年経っている。

  • 柳田国男全集」全36巻・別巻2。「梅棹忠夫著作集」全22巻・別巻1
  • 柳田の世界は、1960年後半から80年代前半にかけて注目された。梅棹文明論は、まだ本格的な議論はおこなわれてはいない。未開拓の分野になっている。


柳田国男は、東大法科を出て農商務省農務局に入り、全国の農山村を歩く。貴族院書記官長を44歳で辞任。
1923年の関東大震災を契機に本筋の学問のために起つ決意をした。
1945年の敗戦にあたって、固有信仰を明らかにすることによって、日本人の文化的アイデンティティの拠り所を再確認しようとした。
民間伝承の学問を一国民俗学と呼び、「自らを知る」学問と規定した。
書物というものは問題を解決するヒントを得るためのものであって、民間伝承のなかに問題解決の鍵がひそんでいる。

成城大学民俗学研究所柳田文庫。長野県飯田市美術館の柳田国男館。
国主外従
経世済民とは「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」こと。
「明治大正史 世相編」(1931年)
「木曜サロン」

1951年に文化勲章斉藤茂吉武者小路実篤と同時綬章。


兵庫県福崎の柳田国男・松岡家記念館。茨城県北相馬郡利根町柳田国男公苑。成城大学の柳田文庫、飯田市柳田国男館を訪問したい。