「人物記念館の旅」から見える関東大震災


2005年から本格的に始めた私の「人物記念館の旅」も、430館を超えてきた。訪問の対象は明治・大正・昭和の近代の人物が多いのだが、1923(大正12年)の関東大震災に遭遇している人が多いことに改めて気づく。この関東大震災は多く人の人生行路に大きな影響を及ぼしている。

 政治家・後藤新平は、震災の直後に組閣された第2次山本権兵衛内閣で、内務大臣兼帝都復興院総裁として「復旧ではなく、復興する」とした震災復興計画を立案し、道路や公園などを中心に現在の東京の骨格をつくった。
 実業家・原三渓は、横浜復興会の会長として市民を励まし、復興を実現した。
 民俗学者柳田国男は、大震災を契機に本筋の学問のために起つことを決意した。
 弁護士・布施辰治は、大震災で朝鮮人が大量虐殺されたことに怒り、朝鮮人の支援と、独立を助ける活動を開始している。
 歌人与謝野晶子は、源氏物語の現代語訳に挑んだ4千枚の原稿が焼失したが、その後気を取り直して再び執筆を開始し遂に完成させている。
 三菱財閥・三代目の岩崎久弥は、大震災にあたって邸宅を開放し2000人以上の難民を一か月以上にわたって世話をしている。
 挿絵画家・蕗谷虹児は、次々に出版される少女雑誌の震災特集、震災画集に被災した人々の様子と復興の女神などを繊細なタッチのペン画で書き続けた。
 小説家・吉川英治は、当時勤めていた東京毎夕新聞社の社屋が焼失し、社業再開の見込みがたたず解散する憂き目にあっているが、その後「剣魔侠菩薩』を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちしていく。
 後の名優・大河内伝次郎は、大震災で会社が倒産、人生観が変わり宗教書を読みふける。その後劇作家を目指すなどの遍歴を経て、大スターへの道を歩み始める。
 白樺派のリーダー・武者小路実篤は、創刊した雑誌「白樺」を160号まで発していたが大震災で中止せざるを得なくなった。しかしこの雑誌は同年代の作家を多数生み出した。
 歴史家・徳富蘇峰は、逗子で津波に被災するが、その間も庭でライフワーク・「近世日本国民史」を書き続けた。
 
関東大震災に遭遇した先人たちの人生は紹介した例が示すように、一人ひとり深刻な影響を受けているのだが、それぞれの持ち場で懸命に運命に立ち向かっている姿がひしひしと伝わってくる。 
 このたびの1000年に一度といわれる東日本大震災によって日本全体が被災し、営々と築き上げてきた近代日本文明は歴史的な転換期を迎えているように思う。