「われは丹青によって男子たらん」--青木繁

「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」がブリジストン美術館で始まった。

青木繁(1882-191年)代表作「海の幸」が印象に残る画家であるが、この作品を描いた20歳を少し超えた頃を頂点に28年という短く苦悩の多い人生を送ったことを知った。
画家を志望した理由。
青木は何に一生を賭けるかと思案する。学者、政治、軍人、、、。哲学、宗教、文学、、、そして最後に芸術にたどり着く。
「人生とは何ぞや」「我は男子として如何に我を発揮すべきや」
「われは丹青の技によって、歴山帝(アレクサンダー大王)若しくはそれ以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」
上京し東京美術学校に入り、黒田清輝の指導を受ける。上野の図書館に通い、古事記日本書紀をはじめ諸国の神話、宗教書を読み漁る。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命(オオナムチノミコト)」などの作品を描くが、父危篤の報を受けて久留米に帰り、以後熊本、佐賀方面を放浪。福岡にて28歳の生涯を閉じる。
この画家の没した翌年に坂本繁二郎などの友人が「青木繁君遺作展覧会」を開催する。青木の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。そしてその翌年に「青木繁画集」が刊行された。青木は死後に評価を高めた。
そして後に久留米出身の河北倫明(京都国立近代美術館長)が「青木繁の生涯と芸術」という論考を書き、私たちは夭折の天才画家・青木繁の芸術を知ることができる。また渡辺洋の「悲劇の洋画家 青木繁 伝」(小学館文庫)には、同郷で繁の叔母モトにかわいがられた人を母に持つ渡辺は小説の形式で、青木繁の人間像に迫っている。この小説では会話には方言を用いており、青木本人の言葉や、友人たちとの会話が真実味を帯びて描かれている。
同時代を生きた友人、そして後に掘り起こしてくれた郷里の具眼の士、そういった人たちによって青木繁は100年もの間、生き続けてきたのである。

実際に見た「海の幸」は、私のイメージと比べると小さかった。それでもタテ70.2センチ、ヨコ182センチの横長の大作だが、昔教科書で見た鮮烈なイメージの大きさほどではなかった。しかし、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目である。

友人の坂本繁二郎は、「流れ星のような生涯だった」と言い、蒲原有明は「比類のない伝説のようだ」と青木の生涯を総括している。
福田たねとの間に生まれた幸彦は、後の尺八奏者、随筆家である福田蘭童で、ある。

谷口治達「青木繁 坂本繁二郎」(西日本新聞社)には、高等小学校時代からの友人二人の軌跡が描かれていて興味深く読んだ。
28歳で夭折した早熟の天才・青木繁と、明治・大正・昭和と87歳まで画業を全うした晩成の坂本繁二郎
二人の友人であり早稲田大学を出て故郷で旧制中学の国語教師をしていた梅野満雄の二人の比較がよく特徴をとらえている。
「彼らは大いに似て大いに異なるところが面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年、眼が共に乱視。彼は動、是は静。、、青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」

周囲に迷惑をかけ続けた青木繁は悲劇の天才であり、人格者・坂本繁二郎は求道の画人であった。どちらにも「繁」という字がついている。
坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にビリジストン創業者の石橋正二郎(1889-1976年)や、政治家石井光次郎(1889-1981年)がいた。石橋が青木繁坂本繁二郎の絵を収集したのもこの縁である。東京のブリジストン美術館で今回の青木繁展が開かれているのもそういう流れの中の一コマである。

坂本繁二郎は、39歳でヨーロッパに武者修行に出たが、自分の仕事、目標や信念を大河の伝統にさらしてみたいということだった。「理屈で割り切れぬ深い良さが日本の自然や生活にあることがパリにいて分かりはじめました」「しかしただ美しいばかり、日本のようにそれ以上、自然が語りかけてくることがありませんでした」「私の考えには遂に動揺を来さなかったばかりでなく一層自信を加える結果となった。」

坂本繁二郎は74歳のときに文化勲章をもらう。同時の受賞は、国語の新村出(1876-196年)と音楽の山田耕作(1886-1965年)だった。こういう人たちと同じ時代を坂本は生きたのだった。

円熟の境地にある坂本の言葉。「絵画と言えば色と形です。しかしそれを裏づけるのは物感です」
老境の坂本の口ぐせ。「私は山奥へ逃げ込みたい。だからだれからも妨げられず描きまくりたい。もっと描きたい。描く時間がほしい」

87歳で坂本繁二郎が老衰で眠るがごとく亡くなったとき、東京美術学校からの画友・熊谷守一から「南無網陀仏」と大書した半切が届けられた。この熊谷は8年後に97歳の生涯を閉じた。

この二日間、いくつかの本を読み進んだ。28歳と87歳という途方もない時間的落差を思った。また青木繁坂本繁二郎は洋画家であるが、日本の歴史と伝統、そして自然に題材をとった絵を描いていることに、感銘を受けた。