開高健記念館--危機と遊びが男を男にする


神奈川県茅ケ崎市にできた開高健記念館を訪ねた。茅ケ崎には橋本駅からJR相模線というローカル線で一時間弱かかる。林と田んぼの中を優雅に走り、気分がゆったりする。いまだにボタンを押してドアを開くというやり方で、やや戸惑う。車内に入ると冷房が効いて寒い位だが、節電令が終わるとまた冷房がやや効き過ぎになっている。
茅ケ崎は、たくましい裸体のまま自転車に乗ってサーフィンボードを持って海に駆け付けようとする男性を多く見かけた。
この街の海側を初めて歩いたが、海の近くのリゾート街、おしゃれなカフェ街、図書館や美術館を擁する文化街、ネオンの咲く飲み屋街と分かれており、成熟した街という印象を持った。

海へ歩いて7-8分のところに、開高が1974年に建てた家がある。当初は書斎を持つ仕事場として使っていたが、後に妻・牧羊子と娘が移り住んで、終の棲家となる。この茅ケ崎はJRでも車でも一時間と変わらないと開高はエッセイに書いている。

瀟洒なつくりの家の前に立つと、「哲学者の小経」という表示があり、この家の周りを巡ることができる。途中に「悠々として急げ」、「遠い道を ゆっくりと けれど休まずに 歩いていく人がある」、「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」、「朝霧の一滴にも 天と地が 映っている」、という開高の言葉を書いたボードがある。

最後の方に、書斎が現れた。「主人を失った書斎」という説明が書いてある。亡くなった当時の書斎をそのまま保存している。十畳ほどの個室には、横長の机と座椅子がある。隣の二畳ほどの小部屋を含む壁には、開高は仕留めた動物の毛皮や魚のはく製が貼りついている。ブラックベアの毛皮、キングサーモン、レッドサーモン、ピンクサーモン、グレイリング、マスキー、ピラーニア。

開高健は1930年に大坂で生まれ旧制大阪高校に入るが学制変更で大阪市立大学法学部に入学しなおす。20歳の時に処女作「印象生活」を発表。23歳、7歳年上の牧羊子と結婚。24歳、寿屋入社。26歳、コマーシャル色を排除した面白くてタメになる雑誌「洋酒天国」を創刊し編集発行人となり大ヒットする。28歳、「裸の江様」で芥川賞を受賞。寿屋を退職。
その後、作家生活に入り大活躍をする。ベトナム戦争、ビアフラ戦争、中東戦争などの渦中に入り、戦争のルポは話題になった。
44歳で茅ケ崎に仕事場をつくる。そして58歳に若さで食道腫瘍にはいお延を併発し倒れる。

大江健三郎と争って勝ち得た芥川賞受賞時には、「定型化をさけて、さまざまなことを、私は今後どしどしやってみたいと思っている」と語っており、実際その通りの型破りの作家となっていった。

開高の原稿用紙に書いた字を展示してあった。わかりやすい字だ。大型の原稿用紙。ほとんど校正の後がないきれいな原稿である。

NHKの「あの人に会いたい」のビデオを流れていた。その肉声から以下、言葉を拾う。

  • ベトナム戦争。誰も戦闘を見ていない。
  • 今日の私は昨日の私ではない。
  • 私はタフでハードだが、ピアノ線のように感じやすい
  • 危機と遊び、男が熱中できるのはこの二つ。危機と遊びが男を男にするのではないか。

記念館に貼ってある言葉。

  • 飲みながら書くのは連想飛躍を求めるからにほかならない。ウオッカがいいのは翌日に臓器にダメージを残すさないから、、

出版人マグナカルタ9条
1.読め 2.耳をたてろ 3.両目をあけたままで眠れ 4.右足で一歩一歩歩きつつ左足で跳べ 5.トラブルを歓迎しろ 6.遊べ  7.飲め  8.抱け。抱かれろ  9.森羅万象に多情多恨たれ
右の諸則を毎日三度、食前か食後に暗誦、服用なさるべし

開高健全集は、22巻だから、相当な量である。20歳から58歳までの38年間。
文藝別冊「開高健 生誕80周年記念総特集」にある「開高健著作リスト」で著作数を数えてみた。

  • 単行本85冊
  • 全集51巻
  • 翻訳2冊
  • 文庫87冊

合計で225冊となった。
この作家は生きていれば81歳だから、20年以上の歳月があったはずだからどれほどの厚みになっていただろうか。

この記念館は開高家茅ケ崎市に土地と建物を寄贈し、運営は市とNPO法人開高健記念会が行っている。入場料は無料なので聞いてみたら、開高健の作品の印税で賄われているとのことだった。