「土門拳の古寺巡礼」二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンス

土曜日。

  • 教授会。秋学期が始動!
  • 秋の卒業式。


秋の卒業生11人の卒業式。就職状況を聞いてみたら、船舶関係のの営業、自動車メーカーの関連会社、、、など。
変わり種は、アクション俳優として身を立てる学生。千葉真一のプロダクションに入る。まずは仮面ライダーなどから出発するらしい。小柄だが肉体は鍛えているとのこと。デビューが楽しみだ。

  • 斉藤T先生、金先生と懇談。(昨日は、今泉先生、出原先生、酒井先生と。)
  • 夜は妻と外食(イタリアン)

日曜日。


「写真の鬼」「撮影の亡者」と言われた土門拳(1909年生まれ)は酒田出身で、素晴らしい記念館が酒田にある。ずいぶん前に訪れたことがある。戦後の子供を描いた「筑豊のこどもたち」という写真集には感銘を受けた。この写真集は10万部以上という異例の売れ行きだったそうだ。

土門は画家志望であったが、仕事を転々とする。母が24歳の時に写真場の内弟子に世話をしてくれ、それが終生の仕事となった。親友の水澤澄夫によれば、厳しく指導した名取洋之助というカメラマンは土門にとってこの上ない師匠だった。この名取とは、雑誌「LIFE」の宇垣外相の写真掲載で袂を分かつ。

戦時色が強まる中、土門は仏像と文楽というテーマに打ち込んでいく。室生寺から始まる古寺巡礼と、特に日本文化の宝とも言うべき人形の文楽は1941年から43年頃に没頭する。

戦後、フリーになった土門はなにげない「日常」をモチーフとした写真を推奨し、子供の写真などを撮るアマチュア写真家を励ましている。土門はスナップ写真の名手だった。それは写真集「江東のこども」を見れば了解きる。

土門の仕事の中では、人物写真も優れている。志賀直哉谷崎潤一郎高見順会津八一、梅原龍三郎尾崎行雄などの顔写真を撮っているが、いい顔、立派な顔という意味で、土門は志賀直哉の顔を挙げている。

その後、土門は社会派に転ずる。砂川闘争、原爆ドームや被害者を描くヒロシマ、。報道写真家として活躍する。「ヒロシマ」では毎日写真賞や東ベルリン国際報道写真展金賞を獲得している。
1960年には写真集「筑豊のこどもたち」を刊行し、終戦直後の石炭の没落の中、ボタ山で遊ぶ子供たちを活写している。この作品は以前訪ねた酒田の土門拳記念館でもっとも印象に残った写真集だった。私たちの子供の頃の様子、兄弟や友達の姿を彷彿とさせる懐かしい写真集だった。

しかし、仕事に脂がのってきた50代を迎えた土門は軽い脳出血に襲われる。これ以後、土門は古寺、仏像にのめり込んでいく。
土門の写真の特徴はライティングにある。光を局部にあてて対象の本質を浮かび上がらせるという独特の方法である。
1968年の50代の終わりに脳出血をし、車椅子での撮影を余儀なくされる。念願にの「雪の室生寺」を撮ったのはこの頃だ。
54才では豪壮で壮麗な大判の「古寺巡礼」の第一集を刊行する。このシリーズは第五集で完結するが、それは66歳の時である。ライフワークとなった「古寺巡礼」では、菊池寛賞を受賞。67歳になって今度は室生寺をカラーで撮影する。

「ひとりの日本人のみずからの出自する民族と文化への再認識の書として愛惜の書として世に残すことができた」

「被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そしてときには語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンスである。パシャリとシャッターを切り、その視点をたぐり寄せながら前へ前へとシャッターを切って迫っていくわけである」(「車椅子からの視点」)

「造形物であるからといって、形に捉われては駄目だ。仏像の精神をまっとうに追及することが必要なのである。」(「仏像を撮るには」より)

母なる室生寺、別名は女人高野は空海が再建した寺である。土門にとってこの寺は古寺巡礼の原点であり、そして最後の「絶写」もこの寺だった。40数年間何十回も通い続けた。この寺の弥勒堂釈迦如来坐像の弘仁仏は天下一の美男だ。土門は「これでいい」というところまでとうとう行けなかったと述懐している。

70歳では朝日賞、仏教伝道文化賞を受賞。

土門は終生、日本と日本人を追いかけた。豪壮で強いもの、そして日本的であるもの、そういうものを土門はテーマとして追及した。以下、35年間にわたって古寺巡礼を続けてきた土門拳が好きなものを挙げる。一度は訪ねてみたいものだ。
建築では懸崖造りの三仏投入堂薬師寺三重塔、室生寺五重塔高山寺石水院。
仏像は、木像では神護寺本道の薬師如来、金剛仏では薬師寺東院堂の聖観音、石仏では臼杵の磨崖仏群。

1979年、70歳で脳血栓。その後はカメラを持つことは出来なくなった。
74歳で、故郷坂谷土門拳記念館が開館する。1989年、」80歳で永眠。

宗教学者の山折哲夫は、「土門拳の肉眼はレンズを通して、レンズを超えるということだろうか。。。氏の肉眼がレンズそのものと化し、レンズの鏡面に氏の肉眼が内在しているのである。」と分析している。

横尾忠則は、「芸術家は自らが選んだ対象を主題にする場合、その対象といつしか一体化していくものである。そしてその対象の中に自己を探ろうとするのだ。土門拳の場合でいえば仏像の中に自己の本体を発見するそんな想像の旅が彼の運命が求めたものであったのではないだろうか」という。
これこそまさに巡礼である。芸術家は巡礼者であろう。

この企画展を観て、「巡礼」と「代表作」というキーワードが私の頭に残った。