鈴木大拙館(金沢)--大拙誕生日の10月18日にオープン

金沢に仏教哲学者・鈴木大拙の記念館が大拙の誕生日10月18日にオープンした。
県庁職員への研修中の昼休みにあわただしく訪問してきた。

鈴木大拙(1870−1966年)は禅の研究を通して東洋の思想を世界に伝えた人物である。存命中の1960年発行の「ライフ」で「世界に現存する最高の哲学者は誰か」という世論調査で圧倒的多数で鈴木大拙が選ばれている。

この大拙の最終学歴は「中卒」である。在籍した第四高等学校、東京専門学校、帝国大学文科大学は、いずれも中退しているからだ。
四高時代には、西田幾多郎(哲学者)、山本良吉(武蔵高校の創設校長)、藤岡作太郎(国文学者)と巡り合っている。
また、大拙は安宅産業を起こした安宅弥吉が献身的な支援を惜しまなかったこともあり、紆余曲折を経て世界的人物になった遅咲きの偉人である。

26歳でアメリカに行くのだが、宗教学者・ポール・ケーラスの助手としてオープン・コート出版社に勤める。米国滞在は11年に及ぶが、この間に「大乗仏教概論」を英文で出版している。また、生涯の伴侶・ビアトリスとも出会う。ようやく帰国した1909年には、すでに37歳になっていた。

聖路加国際病院理事長で先日100歳を迎えた日野原重明先生が、90歳以降の最晩年の鈴木大拙を診ている。当時日野原先生は48歳だった。
大拙は90歳頃から親鸞の「教行信証」の英訳にあたる。「年をとらないと分からないことがたくさんある」と語っていたそうである。

宗教学者山折哲雄も晩年の大拙に何度か会っている。
桑原武夫が、津田左右吉俳人・一茶を日本文学史上の最高の文学者とし、鈴木大拙妙好人みょうこうにん)を高く評価したことを不思議だと書き、そして山折自身も精神医学の土居健郎がもっとも惹かれる人物が良寛であると吐露したことを書いている。それは要するに「日本回帰」と結論付けている。大拙の著書は、禅の世界観を用いて日本文化を伝えようとしたのだ。

後に石川県専門学校(のちの四高)時代の数学教師であった師の北条時敬(ときゆき)は、欧州滞在中の大拙と会う。北条は「実に堅忍勉学、身を立てたる人物なり」といい、「同氏は学生時代には優秀人物に非ざリシニ」と書いている。大拙は年齢を重ねるごとに大きくなっていった遅咲きの人であった。
北条は、山口高校校長、第四高等学校校長、広島高等師範学校初代校長、東北帝大第二代総長、そして学習院院長と栄進を続けた教育者だった。
大拙は、尊敬すべき師と優れた友人に囲まれていた。

大拙書物は、いくつか今からひもとくが、禅や浄土宗など大拙が研究したものは、中国やインドの叡智を学ぶのではなく、それを機として「日本的霊性」が外に現れてくるという言い方をしている。日本研究の人ということだろう。
日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)

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大学で書類整理。事務局の数人と面談。
来年度からのゼミ生志望者と面談。

夜は、町田の「井の上」で樋口裕一さんの家族4人と私の家族4人との会食。