群馬県高崎の県立土屋文明記念文学館を訪問。
土屋文明は1890年生まれで、没したのは1990年。ということは100歳の天寿を全うした歌人である。また、この文明(ぶんめい)という名前は文明開化に因んだ名前だが、本人はあまり気に入ってはいなかったようだ。次の歌を残してる。
あわただしき文明開化の落しものあわれなる名を一生持ちたり
長寿を詠んだ歌もある。
この伯父と伯母の実子に?我ははくぐまれ 諸人の齢をこえ今に長らふ
中学3-4年生でホトトギスを購読し写実主義文学に目覚めた文明ではあったが、東京茅場町で牧場経営をしていた伊藤左千夫のところで、牛乳配達の仕事をすることになる。伊藤は子規の後継者ではあったが、「歌を習いに来たんじゃない。、乳牛のクソをかきだしに来たんですよ」と本人が述懐しているように、牛飼いをしていた。
文明はここから第一高等学校に入学する。
東京帝大では哲学科に入り、山本有三、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと親交を深める。
アララギで活躍していた島木赤彦から、長野県諏訪高女の教頭に推され、その後には全国最年少の校長に抜擢される。この時の教え子に作家の平林たい子がいる。後に松本高女の校長に転任し、自由な教育を実践するが、反対勢力の排斥運動で左遷される。このとき、すぐに辞表を出している。この事件の前の新聞には「神経質で短気な土屋校長 自我の強い諏訪の女学生もふるえ上がった」という記事も出ている。
「短歌は生活そのものである。生活に溶け込みながら歌を作る」という文明は、昭和5年にはアララギの編集発行人になっている。この有名な短歌雑誌は1997年まで続いているのには驚いた。
生活の真実の表現がなされている歌、生活に密着した歌というが、アララギの同人の歌は広く、歌風は「うそをつかないことくらい」とも言っている。
文明は、柿本人麻呂、大伴家持、山上憶良を評価していた。
ライフワークの一つである「万葉集私注」を書くにあたっては「出てきた疑問は、すべてではありませんが、歩いたことで解けたものもあります」と言うように、とにかく自分の足で確かめる人だった。
もう一つのライフワーク「万葉集年表」が完成したときには、喜びを次のように詠んでいる。
命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日の再刊
記念館で気に入った歌を挙げてみたい。
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばありけり何か嘆かむ
諸々の清き人等の中にまじりかにかく過ぎし長き一生ぞ
この人の南青山の書斎が再現されていた。大変気に入っていたようで、この書斎で60歳あたりから約40年にわたって活動を重ねていった。
100歳まで現役活動を続けることの凄みは、芸術院賞、文化功労者、東京都名誉都民、文化勲章というあまたの賞に結実していく。
「苦境にあったら、積極的に生きて楽しむ」という主義だった。
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土屋文明記念文学館では、加藤楸邨の企画展も開催していた。
加藤楸邨(1905-1993年)は、朝日俳壇の選者をつとめた俳人。苦学して32歳で東京文理科大学国文科に入学している。49歳で青山学院女短大教授になって、時間的余裕を得てますます活動を深めていく。
楸邨のライフワークは「芭蕉」である。芭蕉に生涯の指針を得ていた。
死は死にて秋の雲ゆき人は泣き
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次に「日本絹の里」を訪問。「機の音 製糸の煙 桑の海」。
生糸を扱った上州商人。
下村善太郎・江原芳平(前橋)
中居屋重兵衛(嬬恋村)
茂木惣兵衛(高崎市)
吉村屋幸兵衛(新里村)
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辻村寿三郎の企画展が行われていた。
60歳過ぎあたりから、引け目が無くなり、次から次へとエネルギーが湧いてきた。
一生かけて新しい表現を求めてきた。
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宿は、磯部温泉ガーデン・雀のお宿。