阿久悠記念館「馬力を落とさず、ある種の高度を保ってきた」

都心で少し時間が空いたので、お茶の水明治大学アカデミーコモンへ。
地下に阿久悠記念館がある。阿久悠(1937-2006年)は、淡路島の洲本高校を出て、校歌にあこがれていた明治大学文学部に入学する。

大学卒業後、広告代理店宣弘社に入社。27歳。放送作家として阿久悠を名乗る。29歳、独立。30歳、作詞家デビュー。34歳、最初のレコード大賞「また逢う日まで」。以降、毎年のように賞を獲得する。レコード大賞だけで5度。
35歳、レコード大賞童謡賞「ピンポンパン体操」。36歳、レコード大賞作詞賞「じんじんさせて」。37歳、日本作詞大賞「さらば友よ」、日本レコード大賞ヤングアイドル賞。38歳、レコード大賞大衆賞、作詞賞。

39歳では、伊豆・宇佐美に転居。書斎が復元されていた。四畳半に板縁の和室。
40歳、レコード大賞勝手にしやがれ」。41歳、日本歌謡大賞「サウスポー」、「UFO」でレコード大賞
42歳からは、小説を書きはじめる。直木賞候補になった「瀬戸内少年野球団」。「カサブランカダンディ」でレコード大賞金賞。
43歳、日本歌謡大賞「雨の慕情」、レコード大賞

44歳からは日記を書きはじめる。亡くなった70歳まで一日も欠かさず書き続ける。世界情勢、気象、スポーツの結果などを記した時代日記だ。「日記力「日記」を書く生活のすすめ」という本も書いている。これは読んだことがある。ブログを書くのに参考になった記憶がある。確か、継続しようとすると工夫が必要になるとあった。
30年近く日記を書き続けたから、阿久悠は「鍛錬」の鍛を超えて錬の段階を越えたことになる。

また、時代を読み解くために、記事のスクラップをよくしていた。
「歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」と語っている。

「もしもピアノが弾けたなら」でレコード大賞金賞。
45歳、横溝正史賞。

これ以降も切れ目なく受賞が続くので書くのを飛ばす。ヒットの連続で安打とホームランを打ち続けているという印象だ。

51歳、「隣のギャグはよく客食うギャグだ」で直木賞候補
52歳、「黒にり少年オペラ」で直木賞候補直木賞候補には三度なったが、賞は取れなかった。
この頃、1989年に開学した多摩大学の学園歌は阿久悠作詞、三木たかし作曲。この学園歌は素晴らしい曲。

少し飛ばす。

60歳、1997年菊池寛賞を受賞。作詞活動に対するオリジイナリティへの評価と30年位及ぶ活動を評価された。
この頃、50代最後のあたりの阿久悠に出会ったことがある。仕事(JAL)の関係でホリプロのパーティに出ていた時に、野田先生と出会い話をしていた時に、阿久悠が通りかかって野田先生が呼び止めて紹介してもらった。「今度、宮城で大学をつくる。久恒君を教授として呼ぶ。各社から人を集めてね」とおっしゃった。

62歳、紫綬褒章。新しい領域を開拓したというのが授賞理由。
「馬力を落とさず、ある種の高度を保ってきたことへの評価だと思う」
70歳、2007年旭日小受綬章。日本レコード大賞特別功労賞。没。

2011年10月28日、明治大学阿久悠記念館が開館。遺族から自筆原稿をはじめとする関係資料1万点が寄贈された。

明治大学は、古賀政男、スマイリー小原、掘威夫、宇崎竜童、阿木よう子などの音楽関係者を輩出している。

阿久悠は、生涯の作詞は5000曲以上。
日本レコード大賞は史上最高の5度。34歳から43歳までの作品。「また逢う日まで」「北の宿から」「UFO」「雨の慕情」、、。
生涯著作は100冊に迫る。
この人はやはり膨大で質の高い仕事をやり続けた人だ。

シングルレコードの売り上げは6800万枚と史上一位だ。最高の作詞家だったのだ。

この杵記念館を訪ねた後に、野田先生を訪問するのも何かの縁だろう。

以下の本を読みたい。
「愛すべき名歌たち」「書きおろし歌謡曲」(岩波新書
「清らかな厭世」

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