私達日本人に共通する、生命のふるさとを描き出したい--木下恵介

木下恵介記念館。
映画の木下恵介(1912-1998年)監督は、今年生誕100年。映画作品は49作品。
浜松で生まれ、浜松工業学校、オリエンタル写真学校を経て、21歳松竹蒲田撮影所助手。24歳松竹大船撮影所助監督。26歳召集され中国を転戦。31歳処女映画「花咲く港」で山中貞雄賞を受賞し注目される。
以後、1964年まで毎年1-3作を作るが、東京オリンピックから始まったテレビ時代を迎えてテレビドラマに進出。木下恵介劇場、木下恵介アワー、木下恵介人間の歌シリーズを担当する。このシリーズは私の記憶にもある。

アメリカのゴールデングローブ賞は、「二十四の瞳」と「太陽とバラ」で二回受賞している。
「陸軍」。「一億国民の陸軍精神把握に些か寄与せんとす」。ラストシーンの母親像に対して批判があった。厭戦的という評価だった。木下は辞表を出し浜松に変える。「人間を人間らしく描くには、終戦を待つしかなかった」と述懐している。
「大曾根家の朝(あした)」。「惑乱れした君達の行き所を大曾根家の家族は教へる!」。GHQの民主化政策に沿った第一作。
「喜びも悲しみも幾歳月」。「北海の涯に、南海の孤島に、ひたすら灯す人生の真実--涙と感動の夫婦愛」
北海道石狩灯台納沙布岬灯台から長崎五島列島女島灯台まで全国15か所のロケを敢行し、全国各地を転々とする灯台守の生活を描いた海上保安庁国鉄コニカとのタイアップ。佐田啓二高峰秀子、田村高広、中村賀津雄らが好演。主題歌の「おいら、みさきのとうだいもりよ、、」は今の私の耳に残っている。

「樽山節考」。「姥捨山の伝説を彩る永遠の人生詩!」「美しくも痛ましき親と子の愛の絆!万人の心を洗う熱い感動の涙!」主役の老婆を演じた田中絹代は役づくりのため健康な前歯を抜いて撮影に挑んだ。
「善魔」。この作品の若い記者「三国連太郎」は木下の命名の配役だったのだが、本作がデビュー作品となった三国はこれを芸名とした。
二十四の瞳」。原作者の壺井栄の好きな言葉を「桃栗3年柿8年柚子の大馬鹿18年」と塩田幸雄小豆島町長が語っている。

助監督、調音、照明、美術などの撮影チームは木下組と呼ばれていた。これが木下学校と呼ばれるようなった。木下は、自己に厳格である一方、他者には寛容であった。この学校からは、「名もなく貧しく美しく」「われ一粒の麦なれど」の松山善三監督、「秋津温泉」「戒厳令」の吉田喜重監督、「岸辺のアルバム」「ふぞろいな林檎たち」の山田太一監督らが出ている。
また、新人俳優の育成もうまかった。岡田まり子は「演じる私たちをそのまま生かそうとするものだった」と語っている。こういった人材育成の功績も大きい。

二つ年上の東宝黒沢明監督(1910年生れ)とはライバルだった。唐津に黒沢記念館をつくる話があったが、金の不祥事でつぶれてしまったというニュースを聞いたが、木下の場合は中村興資平(1880-1963年)設計の旧浜松銀行協会の瀟洒な洋館を記念館にあてがわれたのは幸運だった。この記念館は2009年にリニュアルオープンした。

この遠州地区からは、映画に関わる才能が数多く出ているという。

  • 私はこれまでつつましく生きる庶民の情感を映像を通して描こうとしてきた。
  • 人間はまったくいじらしい生き物だと思います。だからこそ、私はすべての人にどうにかして幸せになって欲しいと思います。そういう気持ちで映画を作り続けているんです。
  • 歴史を越えて、今日まで流れる日本人の民族性、私達日本人に共通する、生命のふるさとを描き出したい。
                                                                        • -