飢えでやむ民の家塚もろともに岸も噛み去る毒の荒波(田中正造)

佐野市郷土博物館に設置されている「田中正造記念室」を訪問。以下、一報。
田中正造(1841年ー1913年)は、日本初の公害事件である足尾鉱毒事件の告発と解決に一生をささげたことで名が残っている。
一人の人間の名が幾世代も越えて人々に語りつがれることは稀有のことである。田中正造の一生とその仕事にはそういう価値がある。

17歳で名主になるが、江戸に出て無実の罪に問われ、11か月の間獄に入る。
その後、今の秋田県の役人になるが、上役殺害の疑いをかけられ2年9か月の牢獄生活を送る。これも嫌疑が貼れる。この間、「西国立志編」を読んで発奮する。
人の為に身をささげることを決意。故郷に戻って栃木新聞(後の下野新聞)を創刊。
県会議員になり、農民負担の軽減、教育の充実と普及を推進する。
明治23年の第一回総選挙で改進党から代議士に当選。48歳。足尾銅山古河市兵衛と対立。議会で取り上げる。この間、議員歳費値上げ案に反対し歳費を辞退している。
6期連続当選したが、辞表を出した上で、明治34年に天皇陛下に直訴。この直訴状は幸徳秋水が書いた文章に手を入れたものだ。

  • 飢えでやむ民の家塚もろともに岸も噛み去る毒の荒波
  • 真人は無為に多事

館内では没後百年顕彰事業実行委員会専門部会の会合の準備が行われていた。団体17、職員8の合計25人が委員となっていた。来年の百年に向けていろいろな企画が出てくるのだろう。

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佐野の万葉歌碑を探す。佐野観光事務所でもなかなか場所がわからない。一つは分かったが、道路脇に草に隠れてよくわからなかった。

そして、足利の栗田美術館。庭に歌碑が建っており、二つの歌が書いてあった。