30代を対象とした人生戦略の本の原稿を脱稿

30代を対象とした人生戦略の本の原稿を脱稿した。
キャリアデザイン、ライフデザイン関係での総合的、体系的、本格的な内容になった。
この中に「ひとかどの人物に学ぶライフデザイン」という項がある。以下の6人を取り上げて彼らの人生を追ってみた。

1・松浦武四郎(北海道の命名者)
松浦武四郎(1818-1888年)は、伊勢松坂で生まれた幕末の蝦夷地探検家で、「北海道」の名付け親である。明治政府開拓使判官であったときに、北加伊道という名前を提案した。それは、「日本の北にある古くからのアイヌの人々が暮らす広い大地」という意味である。それをもとに現在の北海道という名前が生まれたのである。この人物はアイヌに深い共感と同情を寄せており、アイヌからもっとも信頼された人物だった。

2・豊田佐吉自動車産業への道筋をつけた人)
1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ。と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。

3・梅屋庄吉孫文の中国革命応援者)
梅屋は孫文の南京での国葬の時には、日本人としてただ一人孫文の柩に付き添っている。
映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像毛沢東紅衛兵の攻撃にあったとき、周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」ととめて難を逃れた。
中国革命は日本人の支援者無くしては為し得なかったという説もあるほど、孫文の支援者は多かった。清朝は倒れたが、孫文が遺書で言っているように「革命はいまだならず」で、中国は共産党の国になっていき、日本とは戦争状態になっていった。このため、日中双方とも、こういった日本人の存在について触れないことになってしまった。梅屋のほかにも、熊本出身の宮崎滔天などももっと知られていい人物だと思う。

4・松前重義東海大設立者)
敗戦の一年前に42歳の時に、通信院工務局長という勅任官であった松前重義は、東條内閣を公然と批判していたため懲罰召集をかけられ、陸軍二等兵として南方に送られる。この時、もう一人の内閣打倒の工作を練っていた政敵・中野正剛を東條首相は自決に追い込んでいる。死地に送り込まれた松前は、何回もの危機を脱するのだが、その都度「私は実に運が強かった」「「大変な幸運だったと言える」と語っている。この人のその後の活動を眺めてみると、天が殺さなかったのだという感慨が湧いてくる。

5・粉川忠(東京ゲーテ記念館設立者)
東京に出た粉川は、「ゲーテのための考彰館を作ればいいんだ。そこへ行けば、ゲーテのことがなんでもわかるような、と志が定まった。人生の大目的が決まったのだ。ここで粉川は自分の心を鼓舞するために数条の誓いを立てる。
1.すべて独力でやる、 2.ゲーテの資料を集めることだけを目的とする。 3.ゲーテを利用して金儲けをしない。4.事業が完成するまで故郷の土を踏まない。

6・細川護ひろ(政治家と数寄者という人生)
60歳で政界を引退して13年。あとほぼ同じ時間をこのまま延長でき、87歳を超えることができたら、細川さんは人生の前半は政治家、そして後半はそれ以上の年月を芸術を中心とした数寄者人生を過ごすことになる。
こう考えていくと、この細川護煕という人物は、途方もない道を歩いているという気がしてくる。年輪を重ねるごとに次第に大きな人物として立ち現われてくる可能性がある