加賀市の「深田久弥 山の文化館」を訪問--早稲と晩稲

朝、金沢のホテルから特急電車で加賀市に向かう。
予定していた加賀市の「中谷宇一郎 雪の科学館」の休館日が水曜日だったので、次回にまわすことにした。


まず、山代温泉の北小路魯山人の別荘を訪問するが、休みだったので、外から観察する。
九谷焼の本場なので、窯元・須田菁華で、椿を描いたぐい飲みを購入する。

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  • 深田久弥 山の文化館」(館長は高田宏)


この建物は絹織物向上として建てられた旧「山長」の建物を改装したものである。ここを訪れば山の文化が分かる、そういうミュージアムを目指している感じのいい記念館だ。

深田久弥(1903年生れ)という名前は山をやっていた私にも懐かしい名前だ。
名著「日本百名山」で読売文学賞を受賞した作家である。「九山山房」が再現されたいた。俳号の九山は、久さんをもじったものである。この「日本百名山」は雑誌「山と高原」に56歳の昭和34年(1971年)から4年ほど連載したものを、還暦60歳の昭和39年に出版し、それが翌年受賞となる。

日本百名山 (新潮文庫)

日本百名山 (新潮文庫)

深田久弥は、東京帝大文学部哲学科を中退し小説を書いたが、晩年は「山」をテーマとした山の文学者として紀行文や随筆を書いた。そしてヒマラヤ研究の第一人者となる。
その深田は1971年、山梨県茅ヶ岳頂上付近で脳溢血で急死している。長生きの家系としては異例だが、若い68歳で死を迎えた。

深田久弥の愛した故郷の山は、白山だ。冬には全山が白い雪で覆われる。白山と呼ばれる山は、欧州ではモンブランである。モンは山、ブランは白だ。ヒマラヤではダウラギリである。ダウラは白、ギリは山の意味だ。
「白銀の白山がまるで水晶細工のように浮きあがっているさまは、何か非現実な夢幻の国の景色であった。」と書いている。

この文化館には、図書館があり、深田久弥文庫と高田宏文庫が並んでいる。そして2階には談話室があり、市民の交流の場になっている。
そして「九山山房」には深田久弥ゆかりの品々が多く展示されている。

昭和38年(1963年)年の北国新聞の寄せた「山と還暦」というエッセイに還暦を迎えた時の心境が綴られている。

  • 百を選ぶためには、五百の山へ登らねばならなかった。私は謙遜なたちであるがあえてここで呼号する。「日本百名山」はいままで何人なんぴと)も成し得なかった仕事であると。
  • 自然の一員たる人間にも、早稲と晩稲(おくて)の別がある。過去を振り返ると、私はいつも晩稲であった。若くして名を挙げた秀才どもは、いまや心身とも衰えて、人生の第一線に立つ気力を失っている。長距離競争で俊足どもの後をノソノソ走ってきた鈍足は、いま60の関門を通り過ぎる所で、ようやく前者を追い抜こうとする意力に燃えている。私の骨も肉もまだ強靭である。私の脳細胞にはまだ生新な血が流れている。還暦と屋、驚くにあたらない。私は敢然と赤い着物を着て、新しい呱々(ここ)の声をあげながら、第二の人生のスタートにつこう。

山の文化館で、「深田久弥の追憶」と「深田久弥の思い出」を買った。友人、知人、家族たちの追悼文集である。新田次郎、今西欣司、桑原武夫長沢和俊中村光夫福田赳夫佐伯彰一、高田宏などの見た深田久弥も興味深い。これを読みながら帰路についたのだが、深田久弥大吟醸を彷彿とさせる人柄がよくわかる。追悼集は、その人の人柄を知るための資料としては欠かせないものだ。
深田久弥の人柄をよくあらわしているこの追憶と思い出、そして日本百名山については、後に記したい。

人物記念館を訪問して、そこでライフワークであった著作や追悼の文集を購入し、帰路の途中でそれらを読むのは至上の愉しみである。

  • 小松空港。物凄い勢いで大粒のひょうが降ってきて、40分ほど機内で待機するが、何とか出発できてほっとした。
  • 夜はマンション理事会。