横井庄一記念館---「国あって、国なし」

名古屋市中川区横井庄一記念館を訪問。「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」の第一声で有名になった横井さんである。

敗戦を知らずに28年間の逃亡生活後、1972年1月24日にグアム島で島民に発見される。56歳。2月2日グアム島から東京へ。4月25日帰郷。11月3日結婚、57歳。1997年永眠。享年82歳。
横井さんは私の大学生時代に大ニュースとなった伝説の人物だ。
その記念館は、25年ほど住んだ自宅の一階の二間である。館長は12歳年下の妻の美保子さん。品の良い奥様は1927年生まれだから私の母と同じ年だ。
この日は私が最初の客だったのだが、その後はひっきりなしに訪問者が現れる。米子、福島、山形、徳山など全国各地からで、年配者が多い。美保子さんはその人たちにそのたびに丁寧に説明をしている。横井さんの人生か学ぶべきことは多い。横井さんとその奥様を心から尊敬する。

1m50cmほどの深さ、幅は4m50cの穴倉での想像を絶する生活を支えたのは、手先の器用さと聡明さ、そして生き抜くという意志だったと思う。機織り機、ボタン、針、など生活上のあらゆるモノを作りだしていることに感動を覚えた。

月の満ち欠けで月日を数えて記憶。魚とり道具。食糧はねずみやがまがえる。手造り機織り機。竹かご。事所、棚、トイレ、換気口、井戸、竹の床。昼は見つからないようにむしむしする穴倉で寝ていて、夜になると川で体を洗い、ジャングルで食糧を探す。足跡で見つからないようにジグザグ歩き、ヤシの実は10あれば3つしか取らないなどの細心の注意を払う生活。

250万人の男が戦争で死んで結婚相手がいなくなって独身を余儀なくされたという同年輩の婦人の会話も聞いた。横井さんのグアム島での悲惨な穴倉生活を克明に説明している姿を見て、戦争をしては絶対にいけない、という信念が感じられた。そういう使命感でこの私設記念館を無料で開放しているのだろう。
横井さんのお母さんは、「庄一は生きている」と言っていたそうだが、帰国する13年前に亡くなっっている。母の言葉が正しかったわけだ、。
「国あって、国なし」という横井さんの言葉を語っていたのが印象的だった。
「何もかも夢のよう」

「六十路越え喜寿も米寿もなんのその白寿も迎えて尚生きたまへ」(美保子)
「素朴で暖かかった。一度も怒られたことはありません」

横井庄一さん。
1973年、グアム島を再訪。
1974年、「明日への道 全報告グアム島孤独の28年」(文芸春秋)。参議院選に出馬、落選。
1976年、陶芸に打ち込む。
1979年、自宅に「六十路窯」
1980年、陶芸展の開催が始まる。講演と作陶の日々。
1983年、「無事がいちばん」(中央公論社
1984年、「横井庄一のサバイバル極意書 もっと困れ!」(小学館
1997年、永眠。享年82歳。

横井さんの焼いた器、「忍」や「仏心」などと書かれた字がうまい。

横井美保子「鎮魂野旅路 横井庄一の戦後を生きた妻の手記」(ホルス出版)を読了。

鎮魂の旅路―横井庄一の戦後を生きた妻の手記

鎮魂の旅路―横井庄一の戦後を生きた妻の手記

  • 親に孝すれば国に不忠(捕虜)、国に忠すれば親に不幸(死ぬ)。国も親もどっちも大事だから、自分の力で生きていけばいい。そういう結論になった。(横井)
  • まるで畑の、とれたてのお大根のようにみずみずしい感じがした。(美保子)
  • 人間ジャングルと申しましたのは、戦後、人間の心が変わってしまったと感じるからでございます。、、私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。、、勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。、、食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。、、、子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません。(政見放送、から)
  • ひとくれの 土にむかいて ひたすらに まなびし日々の 時ゆたかなり
  • 炎くぐり 土は器となり 新しき 生命のごとく 我にささやく
  • 不要なものは食うな 着るな 使うな
  • 物質的にはケチケチ作戦を実行しながら、なにかひとつ精神的になにもかも忘れて打ち込める趣味を持つことです。