毛利空桑記念館。

大分市鶴崎の毛利空桑記念館。
鶴崎は豊後ではあるが、熊本肥後班の飛地である。そこの江戸末期から明治時代にかけて活躍した毛利空桑(1797-1884)は、儒学者、教育家、そして尊王家であった。

私塾、知来館で890人の人を育てた。年の離れた吉田松陰も1853年にこの地を訪れて、その二年後に松下村塾を開いている。

長男登は宮司、次男精は有栖川宮の家庭教師、三男莫は国会議員、四男熊は湯布院の玉の湯に婿養子に入った。

17歳から6年間、帆足万里に学ぶ。その間、三度破門されている。激しい性格だったことをうかがわせる。23歳か4年間、熊本時習館で古学と武術を学んでいる。27歳からの1年間、福岡の亀井昭陽から古文辞学と尊王思想を学んでいる。

余、聖を崇び、求めて聖人の徒となる。漢、唐、宋、明の註疎家となるを欲せず。故に余の門、聖学、儒学あり。しかして、宋学陽明学、仁斎学、徂徠学などの称なし。
この心意気に共感を覚える。

知来館の日課があった。
午前6時から8時は朝講、10時から12時は午後講。午後は武道。

文ありて武なきは真の文人にあらず
武ありて文なきは真の武人にあらず

世と与に浮沈するは真の正義にあらず

質素、倹約、粗食がモットー。

湯布院の金鱗湖は、この人の命名である。


城島高原の志高湖の万葉歌碑を訪ねる。

をとめ等が はなりの 髪をゆふの山 雲なたなびき 家みのあたりみむ

高校時代からの友人の宇野千葉雄君が別府のホテル晴海に訪ねてくれて、母と一緒に食事会。その時代からの母とも知り合いなので楽しい時間を過ごした。