シュリーマン自伝--不屈の人。自成の人

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)

トロヤ戦争の物語を絵本で読んだ少年シュリーマン(1822-1890年)は、美しい古都が地下に埋もれていると信じ発掘を志す。そのための語学などの猛烈な勉学と商人としての経済的勝利を携えて、遂にくわとすきによって発掘を開始する。そして伝説と信じられていたトロヤ文明の発掘に成功する。そしてミケネ文明も発掘する。シュリーマンはこの二つの文明の発掘者として歴史に名前を刻んだ。

シュリーマンは14歳から小僧として働き始める。いくつかの職場を変えて22歳でアムステルダムンのシュレーダー商会に入り、その後は商人として大活躍し、また幸運にも恵まれて、大成功を収める。この間、英語、フランス語、オランダ語スペイン語、イタリ語、ポルトガル語、ロシア語、スエーデン語、ポーランド語、現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、ラテン語アラビア語ヘブライ語を習得する。
42歳。生涯の大目的を実現するための手段であった金銭を十分に確保したので、すべての実業を清算し、少年時代の夢であったトロヤの遺跡の発掘という大プロジェクトに入って行く。その大事業の前に、世界を周遊し、インド、中国、北アメリカを旅する。このとき、シュリーマンは日本にも寄っている。幕末の横浜に着き「絹の道」をたどり八王子まで足をのばしている。また江戸を見ている。このあと最初の著書「シナと日本」を書いた。
49歳からいよいとトロヤの発掘にかかり、「プリアモスの財宝」を発見する。
「この宝庫はその一つをおってしても大博物館をむたすにたり、世界最大の驚異となり、またきたるべきいく世紀にわたって全世界の数千の異国の客をギリシャに引きよせるでありましょう」とギリシャ国王に電報を打った。
54歳、ミケネ発掘。68歳、ナポリにて死去。

シュリーマンは異常な努力によって15カ国語を話し、書くことができた。
彼は切迫した境遇の中であらゆる言語の習得を容易にする方法を発見する。
「非常に多く音読すること、決して翻訳しないこと、毎日1時間をあてること、常に興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、次の時間に暗唱することである。」
また、難解な古代ギリシャ語については、学校でとられている方法はまったく誤っていると語っている。
ギリシャ語文法の基礎的知識はただ実地によってのみ、すなわち古典散文を注意して読むこと、そのうちから範例を暗記することによってのみ、わがものとすることができるのである。」

また、シュリーマンは12歳から68歳で没するまで、50年以上に亘って日記をつけ、ノートを残している。

「私はつねに5時に起床し、5時半に朝食、6時に仕事をはじめて、10時まで休まず。」
「私の習慣としてつねに早朝3時45分に起床し、、、次に水浴した。」
「床に入る前に日記をつける」

大事業の成功はシュリーマン夫人ソフィアの手助けも重要だった。
少年の頃、トロヤの発掘という野望を抱いたシュリーマンは、ミナという少女と恋をする。ミナだけは彼のことをよく理解していたのだ。ミナが14歳のときに偶然再会するが、満足に話もできなかった。経済的な基礎を築いた24歳のとき、友人を通じてミナに結婚の申し込みをするが、彼女は数日前に他の人と結婚していた。

晩年は莫大な財産、鋼鉄の体で、個人的な交際を楽しみながら、研究に専心しながら日々を過ごした。しかし晩年の10年間は反対者との戦いでもあった。

この本の中では、シュリーマンは、「不屈の人。自成の人。セルフメイドマン。熱情家。実際的な人間」などと描かれている。

シュリーマンは、人生の前半を志の実現のための手段として金を稼ぎ、それがなるときっぱりと実業を清算し、人生の後半をトロヤの発掘にかけていく。
たった一人の少年が抱いた志が生涯をかけて形になっていき、歴史を塗り替える。奇跡の人の物語だ。