菊池寛--私は頼まれて物を言ふことに飽いた(文芸春秋創刊の辞)

全国にある人物記念館を訪ねたり、小説家のエッセイや回顧録を読んでいると、菊池寛という名前が底流のように響いてくる。多くの人がこの人の影響を受けていることをがわかる。
菊池寛(1881−1948年)は、小説家であり、文芸春秋社を起こし、そして芥川賞直木賞をつくった。

この人の年譜を追うと、しなくてもいい遠回りをしていることと、ピンチの時に救ってくれる人があらわれることに気づく。
高松中学、20歳東京高等師範学校は放縦不羈を理由に除籍処分、21歳明治大学法科に入学するが3か月で退学、22歳徴兵猶予のため一時早稲田大学に籍をおく、第一高等学校文科に入学、25歳友人の窃盗事件に巻き込まれ卒業3ヵ月前に退学、京都帝大英文科に入学、28歳京都帝大を卒業し、時事新報に入社し社会部の記者となる。

28歳で社会人になっているから相当の晩稲だが、29歳で戯曲「父帰る」を発表し、一躍時の人になる。30歳「無名作家の日記」「忠直卿行状記」、31歳「恩讐の彼方に」を発表し、時事新報社を退き大阪毎日新聞の客員になるう。32歳市川猿之助が「父帰る」を上演し劇界に一時期を画する。新聞小説真珠婦人」で成功。

35歳文芸春秋社を創設し、雑誌「文芸春秋」を創刊。39歳友人芥川龍之介が自殺、40歳株式会社文芸春秋社社長に就任、41歳「菊池寛全集」の刊行を始める、42歳文化学院文学部長、47歳芥川賞直木賞を設定、48歳文芸協会初代会長、51歳菊池寛賞を設定、54歳日本文学報告会創立総会議長、55歳大映社長、満州文芸春秋社長、56歳戦記文学賞設定、59歳、公職追放、59歳急逝。

遺書「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います」
文芸春秋創刊の辞「私は頼まれて物を言ふことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で言って見たい。」「文芸春秋は、左傾でも右傾でもない、もっと自由な知識階級的な立場でいつまでもつづけて行くつもりである」
芥川「菊池と一っしょにいると何時も兄貴と一しょにいるような心持がする」
 芥川龍之介の河童忌に詠んだ俳句が目についた。  河童忌や 集まる人も やや老いぬ

松山の記念館には芥川賞直木賞の全受賞者の名前と写真が並んでいた。日本の文学界の巨匠だらけで実に壮観だ。この賞が与えてた影響力を改めて感じてしまった。
菊池寛賞は、日本文化の向上に貢献した人・団体に与えられる賞で、宮崎駿イチロー曽野綾子桂三枝新藤兼人高野悦子安藤忠雄いわさきちひろ、近藤誠などの名前がみえる。

私の日常道徳
「貰うものは快く貰い、やる物は快くやりたい」「貸した以上、払って貰うことを考えたことはない。また払ってくれた人もいない」「私は遠慮はしない」「自分の悪評、悪い噂などを親切に伝えて呉れるのは閉口だ」

  • 日本精神というのは外来のあらゆる文化の思想を包容して、しかも本来の真面目を失わないところに存する。
  • 日常生活が小説を書くための修業なのだ。

井上ひさし菊池寛という人はどうやら、生活の場ではグータラでものぐさ、勉強や仕事になると別人のごとく勤勉というタイプだった」