内田樹「修業論」から

内田樹「修業論」(光文社新書)。

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

著者が40年の稽古を通して得た修業の本質を語った本だが、武道の経験のない者にはなかなかつかみがたいところがある。
著者は、武道の修業で開発される能力は「生き延びる力」であり、敵を倒すことが目的ではなく、自分自身の弱さのもたらす災いを最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系である、という。道場の稽古は「楽屋」で、生業の場が「舞台」となる。守るべき私を廃棄すると、修業は私を予想もしなかった場所に導いていく。

最後の司馬遼太郎論が斬新だ。桂小五郎武市半平太坂本龍馬がそれぞれ幕末の三大剣道場の塾頭をそろってやっていたのは司馬のいうような偶然ではなく、剣技の高さと志士としての器量のあいだに相関があったと著者は見る。彼らは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばいいかがわかる」能力を修業によって身につけていた。
著者がいうように何度も読みかえすべき「するめ」のような本のようだ。

とりあえず気になったところを、以下ピックアップ。

  • 修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセスです。
  • 戦闘能力と統治能力を共約する人間的能力が存在する。それは「集団をひとつにまとめる力」である。
  • 「人の技を批判してもうまくならないからだ」
  • 瞑想
    • 1.額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある。
    • 2.先人が工夫したあらゆる心身の技法は生きる知恵と力を高めるためのものである。
    • 3.私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選択することができなければならない。
    • 瞑想のもたらすもっとも重要な達成は「他者との同期」である。
    • 武道修行の目的は、想定外の事態の出来に遭遇したときに適切な対応ができることである。、、、何をなすべきなのか。「瞑想する」というのが、この問いに対する技術的な回答である。
    • 「今・ここ・私」が遭遇した事態を俯瞰的に観察し、何が起きているのかを理解し、なすべきことがあれば、なすべきことをなす。それが武道的な意味での瞑想である。
    • 二人の人間が対峙してるとき、その事態を「頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本」のキマイラ的な生物が「ひとり」いる、というふうにとらえる。
    • 生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。それ以外にない。
  • 世に「神秘的」と呼ばれる経験の多くは「精度の低い計測機器では感知できなかった量的変化」である。
  • 成熟を果たした人間にしか、「成熟する」ということの意味はわからない。
                            • -

同時代史
・安倍首相:消費税率8%を決定。