高野悦子追悼上映が神保町の岩波ホールで3週間にわたって開催中だ。
女性監督のシリーズである。羽田澄子監督の「薄墨の桜」を観てきた。
岩波ホール総支配人だった高野悦子は2013年2月9日に83歳で亡くなったが、奇しくもこの日は岩波ホールの創立45周年の日だった。
220席の小ホールは高齢の映画ファンでほぼ満席だった。追悼にふさわしくクラシックが静かに流れていた。
「薄墨の桜」は、岐阜県根尾川上流の桜の古木を追ったものだ。推定樹齢1300年。継体天皇のお手植えという伝説。羽田澄子監督は1926年、旧満州大連生まれ。
会場で機関誌「Iwanami Hall」の378号の高野悦子特集を手にした。
お別れの会での弔辞を中心に編まれたものだ。
「すらっと背が高くて色白の面に微笑みを浮かべた上品な高野さん」「美しい人柄と育ちの良さ」「姿勢が良くて声が爽やかで、元気一杯、、」「確固たる自分の信条を口にするときの明るくきっぱりとした言い方と、しかもそれを、なにかいたずらっぽい笑顔で言う嬉しそうな表情」
山田洋次監督
- 高野さんがぼくたちの国の映画界にどれほど大きな貢献をされたか、その存在がどれだけ偉大だったか、築き上げられた目がくらむほど膨大な仕事の量については今日ここにご出席の皆さんはよくご存じのはずです。高野さんに頼めば何とかなる、高野さんの意見に従えば間違いない、、。
- 高野さん、あなたがシネマ君と結婚してくれたことは、実はぼくたちにとってどれほど大きな幸せ、素晴らしい幸運だったかわからないのですよ。
佐藤忠雄(映画評論家)
- 自分が本当に良い映画だと信じる作品だけを上映するという信念を貫き、それを成功させました。その作品が持っている志の高さについて語るとき、高野さんはじつに嬉しそうであり、また自信に満ちていました。
- 良い映画とは、世のため人のために必要な正しいメッセージを、心のこもった表現で広く社会に伝える映画であり、それを上映することは尊い作業であるということを、信じていました。、、無邪気なまでに鮮やかに態度で示せる人はちょっといなかった。それが人を動かし、メディアを動かした。
海外からのお悔みも多数届いた。ポーランド、ドイツ、コートジボワール、中国(香港)、ベトナム、オーストラリア、韓国、中国(北京)。
- ポーランド:私たちは、知的で、感受性の豊かな人を失いました。
- 中国(香港):高野さんは、常に夢を追っ手それを実現させる人でした。
- オーストラリア:非常に堂々とした、博識な人であり、正しいことを照らし出し、世界にもたrしました。
- 韓国:故人の他界は世界の文化界にとって大きな損失に違いありません。
- 中国(北京):長きにわたり、日中両国の友好往来に力を尽くされました。中国に対して厚い感情があり、両国映画界のため、映画人の友好交流に大きな貢献をして下さいました。
- 「(監督という)生みの親にはなれなくても、育ての親になれるはず」。自身の言葉通りに生きた。
- 「これが人生最後の上映になっても悔いなし、と思う映画だけを紹介してきました」という信念に揺るぎはなかった。
- 自分の劇場だけではなく、広く映画界全体のことを考えている人でした。
大竹洋子(毎日新聞)
- 深謀遠慮の人。一見てきぱきと物事を進め、単刀直入な人と思われがちだが、実は非常に思慮深い人だった。そして恐ろしいくらい努力する人だった。
この人は聖人だった。
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九段でP出版社の新書担当副編集長と会う。
いくつかの企画案が話題になった。少し考えよう。
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引き続き、P出版社の編集者とこの1年取り組んでいる単行本企画について打ち合わせ。もうひと踏ん張り。
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